探偵ボードレールと病める花々【第十四話】

文字数 1,534文字

今回はヴィクトル・ユゴーのお話ね。予告した通り、ユゴーと比べると、ボードレールは惨めな〈探偵〉だった。
前回からの続きなのです。
群衆の経験がボードレールをどんなに惹きつけたか。その証拠は、この群衆の中の孤独の経験が、ボードレールがユゴーといかに張り合おうと企てたのか、それを見ればあきらかなのです。ひとつの証拠と言えるのですよ。
ユゴーの強みがどこにあったか。それはまさにこの〈経験〉にある、とボードレールは考えたのでです。
ボードレールはユゴーの「疑問を持つ、詩の性格」を称賛し、ユゴーは明晰なものをはっきりと再現するだけでなく、朦朧かつ曖昧にしか示現することを心得ている、と言っているのです。ボードレールの『巴里風景(タブロー・パリジャン)』詩篇のなかには、ユゴーに捧げられた詩が三つあるのです。
称賛はしているのね、ボードレールは。
ギスギスした人間関係を感じるね!
こら、ちづちづ。言わないの。
はぁい。わかったよ、お姉ちゃん。
ボードレールはユゴーについて「大洋さえが彼にうんざりした」と言い、考えにふけりながら絶壁の上に立ち尽くしている彼に、ちらりと皮肉のスポットをあてたのでした。
自然の劇に見とれることは、ボードレールの性分には合わなかったのです。彼の群衆体験には、都市の雑踏のなかを行くものが蒙る「不当なこと、あっちこっちに押しやられること」の痕跡が染みついてしまっているのです。ボードレールにとって群衆は、世界の深みへ思考の弾を撃ち込むきっかけに決してならなかったのです。
確か、これに関してユゴーは「深いものこそ群衆だ」と書いたんだっけ。そしてそこに計り知れぬ広い思考の場を、つくりだしたのよね。
大衆存在の底知れ幽暗さは、ヴィクトル・ユゴーの革命的思弁の源泉でもあったのです。当然の発言だったのです。
ギスギスが止まらないねー。
ユゴーとともに、また、ユゴーがともに歩んだ群衆にとっては、ボードレールはなきに等しかったのです。だが群衆は、ボードレールにとって〈実在していた〉。彼らを眺めることが、日々彼に、彼の不成功の深さを測るきっかけを与えたのです。ベンヤミンは言うのです。このことが、彼が彼らを眺めてやまなかった理由のうちの、大きなひとつだったろう、と。
だから、絶望的な高慢さが束になってボードレールにとりついたのは、ヴィクトル・ユゴーの名声にあずかっている、とも言えるのね。
もっと激しくボードレールを刺激したのは、ユゴーの政治的な信仰告白なのです。それは、市民(シトワイヤン)の信仰告白だったのです。大都市の大衆は、この市民を〈惑わす〉ことはなかったのです。
彼は彼らのなかに国民という群衆を再認し、彼らと合体しようとしたのです。政教分離と進歩と民主主義が、彼が彼らの頭上に振りかざした旗印であり、この旗が、大衆存在を浄化したのです。個人と群衆を隔てる敷居は、見えなくなったのでした。
それで言えば、ボードレールはその見えない〈敷居〉で頑張っていた。これがボードレールとユゴーを区別する大切な要素よね。
ユゴーが群衆を導くイメージが、ヒーローなのです。ユゴーが大衆を近代叙事詩としてことほぐときに、ボードレールは大都市の大衆のなかにヒーローの避難所を求めるのです。
ユゴーは〈市民として〉群衆のなかに自己を移し入れ、ボードレールはヒーローとして群衆から自己を分離する、というまとめで、今回はいいかしら。
おおむねそれで良いと思うのです。それでは、ボードレール自身について、深く語っていくことにするのです。
   これから〈探偵〉ボードレールについて、語っていくわよ。

   それ自体が、探偵を語る探偵もののお話になれば、いいなぁとわたしは思うわ。


   それじゃ、次回へつづく!!

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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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