探偵ボードレールと病める花々【第十四話】
文字数 1,534文字
群衆の経験がボードレールをどんなに惹きつけたか。その証拠は、この群衆の中の孤独の経験が、ボードレールがユゴーといかに張り合おうと企てたのか、それを見ればあきらかなのです。ひとつの証拠と言えるのですよ。
ボードレールはユゴーの「疑問を持つ、詩の性格」を称賛し、ユゴーは明晰なものをはっきりと再現するだけでなく、朦朧かつ曖昧にしか示現することを心得ている、と言っているのです。ボードレールの『巴里風景(タブロー・パリジャン)』詩篇のなかには、ユゴーに捧げられた詩が三つあるのです。
自然の劇に見とれることは、ボードレールの性分には合わなかったのです。彼の群衆体験には、都市の雑踏のなかを行くものが蒙る「不当なこと、あっちこっちに押しやられること」の痕跡が染みついてしまっているのです。ボードレールにとって群衆は、世界の深みへ思考の弾を撃ち込むきっかけに決してならなかったのです。
ユゴーとともに、また、ユゴーがともに歩んだ群衆にとっては、ボードレールはなきに等しかったのです。だが群衆は、ボードレールにとって〈実在していた〉。彼らを眺めることが、日々彼に、彼の不成功の深さを測るきっかけを与えたのです。ベンヤミンは言うのです。このことが、彼が彼らを眺めてやまなかった理由のうちの、大きなひとつだったろう、と。
彼は彼らのなかに国民という群衆を再認し、彼らと合体しようとしたのです。政教分離と進歩と民主主義が、彼が彼らの頭上に振りかざした旗印であり、この旗が、大衆存在を浄化したのです。個人と群衆を隔てる敷居は、見えなくなったのでした。
これから〈探偵〉ボードレールについて、語っていくわよ。
それ自体が、探偵を語る探偵もののお話になれば、いいなぁとわたしは思うわ。
それじゃ、次回へつづく!!