理性の系譜【第三話】
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そしてこの隠ぺいされてしまった狂気体験が、ヘルダーリンやニーチェやゴッホやアルトーに復活するのを、ボクらは見ることになる。例えば、フーコーが文学について触れるたびに、狂気で人々を魅了する彼らと、再会することになるのです。
17世紀以降、今見たような悲劇的形式の狂気は消失し、理性によって道徳的に告発される非人間的・動物的な狂気が、非医療的な一般施療院に監禁されたのですが、狂気を病として知覚する意識が存在しなかったわけじゃないのです。
とはいえ、18世紀の医学的経験は、狂気を精神疾患として知覚する条件を徐々に形成していくことになるのです。フーコーが重視するのは、狂気においては「身体」と「精神」が〈ともに問題〉である、という意識が一般化した、ということなのです。
「他者」である狂気は未だ非医療的な一般施療院に監禁されたままだったけど、狂気の分類が試みられ、精神疾患として知覚する条件を徐々に形成していくことになる。それは狂気については身体も精神も、どちらも重要だ、っていう意識が芽生え始めたからなのね。
そこから、狂気の原因を精神の器官である脳の障害に見出そうとする解剖学的発展が可能になるのでした。また、身体の感受性とそこに影響を与える外的環境が重視され、狂気は感受性の障害とも考えられるようになってきたのですね。
どのようなものが見えてしまおうが聞こえてしまおうが、それを「非理性的」「非論理的」に解釈してしまう異様な言語活動が存在する場合のみ「狂気」なのですよ! ここでいう「非理性的」「非論理的」とは、もちろんまわりのひとたちにとって、という意味ですよ。
狂気が、仮に異常なものであれなんであれ、なんらかの論理にもとづいて構築された言語活動であるのであれば、理性による把握が可能なはずなのです。こうして狂気の危険性は打ち壊され、狂気は理性の取るに足りない「対象」とされるのです。
狂気が個々人のケースの中で、なんらかの論理・イマージュにもとづいて言語活動しているのならば、それは支離滅裂に見えても実際は〈そのひとなりの論理〉で思考・言語活動しているのだから、〈理性での把握が可能〉だろう、という考えね。
つづく!