理性の系譜【第三話】

文字数 1,502文字

人々を魅了し、理性に対する批判意識としても認識されていた、そんな〈狂気〉。それでは、「監禁」された「狂気」は、その後どうなっていったかを、今回は見ていくことにしましょう。
ミシェル・フーコーは古典主義時代に起こった「監禁」以降、西洋社会は狂気の悲劇的形式を隠ぺいしてしまったと指摘するのです。
そしてこの隠ぺいされてしまった狂気体験が、ヘルダーリンやニーチェやゴッホやアルトーに復活するのを、ボクらは見ることになる。例えば、フーコーが文学について触れるたびに、狂気で人々を魅了する彼らと、再会することになるのです。
フーコーを魅惑する彼らの狂気は、理性や真理など歯牙にもかけず、それ自体として存在するような「他者」とも言えるわね。
17世紀以降、今見たような悲劇的形式の狂気は消失し、理性によって道徳的に告発される非人間的・動物的な狂気が、非医療的な一般施療院に監禁されたのですが、狂気を病として知覚する意識が存在しなかったわけじゃないのです。
18世紀の医学は、自然界の植物の種目を分類するように、病気を分類しようとしたのです。その動きの中で、狂気を分類の空間に位置付けることが試みられたのですが、その企ては成功しなかったのです。
なぜかというと、中立的で医学的な合理的精神に従って分類するには、個々の狂気現象はあまりに道徳的な意味合いを負わされ過ぎていたからである、と言えるのですね。
とはいえ、18世紀の医学的経験は、狂気を精神疾患として知覚する条件を徐々に形成していくことになるのです。フーコーが重視するのは、狂気においては「身体」と「精神」が〈ともに問題〉である、という意識が一般化した、ということなのです。
「他者」である狂気は未だ非医療的な一般施療院に監禁されたままだったけど、狂気の分類が試みられ、精神疾患として知覚する条件を徐々に形成していくことになる。それは狂気については身体も精神も、どちらも重要だ、っていう意識が芽生え始めたからなのね。
そこから、狂気の原因を精神の器官である脳の障害に見出そうとする解剖学的発展が可能になるのでした。また、身体の感受性とそこに影響を与える外的環境が重視され、狂気は感受性の障害とも考えられるようになってきたのですね。
フーコーは指摘するのです。興味深いのは、狂気の本質的な構造は言語活動であることだ、と。
精神と身体の感受性の乱れが幻覚・幻聴などイマージュを生じさせるかもしれず、しかしイマージュはそれ自体としては純粋なものであって、狂気ではないのだ、とフーコーは言うのです。
イマージュとは、ある事物に対し特定の姿を想像するという意味で、英語のイメージに対応するわ。
どのようなものが見えてしまおうが聞こえてしまおうが、それを「非理性的」「非論理的」に解釈してしまう異様な言語活動が存在する場合のみ「狂気」なのですよ! ここでいう「非理性的」「非論理的」とは、もちろんまわりのひとたちにとって、という意味ですよ。
最初に答えた通りね。
狂気が、仮に異常なものであれなんであれ、なんらかの論理にもとづいて構築された言語活動であるのであれば、理性による把握が可能なはずなのです。こうして狂気の危険性は打ち壊され、狂気は理性の取るに足りない「対象」とされるのです。
狂気が個々人のケースの中で、なんらかの論理・イマージュにもとづいて言語活動しているのならば、それは支離滅裂に見えても実際は〈そのひとなりの論理〉で思考・言語活動しているのだから、〈理性での把握が可能〉だろう、という考えね。
ここで、狂気の、医学、理性での把握が視野に入ってきた。じゃあ、次へ進みましょう。
   つづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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