第117話 桜花。【前編】
文字数 2,071文字
まとめておきたい、というのはアレですね。実は今回の話の主役になる戦争の部隊の話を、小説でいつか書きたいと思いながら、すでに7年以上経過しているけど書けていなくて、小説にすることができずに人生が終わってしまうかも、という考えから、今回、そのアウトラインになればいいな、というるるせは、この回を執筆することになったのですね。
そうなのよね。エアリプってことについては、今回のきっかけは、坂口安吾『桜の森の満開の下』の書評を書いた方がいてね、その方が、坂口安吾の『桜の森の満開の下』は、GHQによる言論統制下の昭和二十二年に発表されたこと、そして、当時、雑誌『新潮』から掲載を断られ、その『桜の森の満開の下』は、カストリ雑誌『肉体』で掲載されたため、発表直後は評価されなかったことを書いていてね。桜は、明治以降はナショナリズムと結びつけられ、「散る桜」は戦死を意味するようになった、ということをその書評を書いた方はその書評のなかで提起するんだけど。
日本国内の意味合いに於いての右翼と左翼、という言葉の場合、るるせは、『密室灯籠』などにも書いている通り、小説の師匠(亡くなったときにその身体を二階から一階へ移動させたのはるるせである、というほどに親密な関係の、文字通りの師匠よ)は、学生運動時代のセクトの幹部だったし、逆に、るるせは国粋の方のお世話になったこともあったのよ。それ以外にも、右陣営のひとである知り合いも多いし、逆にガチガチの左のひとたちも知り合いにいる。そういう意味で、左右どちらでもない。どちらでもないということは、人それぞれによって味方にも敵にも見える、という意味でもあるわね。
坂口安吾『桜の森の満開の下』のレビューを書いたひとはたぶん経験してなくて、るるせが経験したことがあること。それは〈神風〉の〈特攻隊〉、知らないひとに説明すると悪い言い方だけど要するに敵に突撃して自爆して死ぬ部隊、その部隊のひとつである『桜花部隊』の航空機・桜花、の現物が置いてあって、桜花部隊の慰霊のための場所である『桜花公園』に、連れられて行って、祭りの準備の手伝いもしたことがある、るるせだから書く「資格」がある、という判断ね。例えばネットのそこかしこによくいる、この経験もしないでわーわー書くのはいただけないわ。Twitterや2ちゃんねるでネトウヨとか呼ばれている「外野が安全圏からわーわー言ってる」のとるるせでは、ちょっとワケが違う。
あのねー、ネットではそれっぽく騒ぐひとたちはたくさんいるのに、桜花公園で慰霊の祭りの担い手になるひとが、もう若い人ではいなくなっちゃったのよ。おかしいと思わない?? そんなに本当にウヨだってんなら、慰霊の祭りくらい手伝いなさいよ!! そいつらよりも、まだるるせの方が喋る資格がある、と思うので、喋ろうと思うわ。
と、いうわけで、今回は「散る桜」と「ナショナリズム」がセットになっている、という話と、名前がそのままずばり「桜花」である、特攻兵器である航空機と、その特攻して「桜のように散る」、『桜花部隊』の話ですね。
〈戦後直後に発表した『堕落論』で、安吾は「戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない」と語っている〉こと、そして〈桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました〉ということ。レビューを書いたそのひととだいたい同じ、そこに着地するように話すわ。
次回へつづく。