廃園の亡霊のために【第四話】

文字数 2,556文字

R.D.レインは人間存在の在り方の構造としての『基本的実存的位置』を、『存在論的安定』と『存在論的不安定』とにわけるところから出発したのだったわね。
『存在論的安定』のひとはそのアイデンティティと自律性には疑問の余地すらない。これをわたしたちは何度も『肉化された自己』と呼んできたわね。それが、前回までのアウトライン。
一方で問題になるのが、自己、および他者の現実性、アイデンティティ、自律性が自明でない、『存在論的不安定』のひと、ボクらが『肉化されざる偽りの自己』を持ったひと、と定義してきたひとたちのことです。今日はそのひとたちのお話です。
どーでもいいけどのー、これは別にセルフメディケーション的なものでもないからのー。あちしに話を振らないようにするのじゃぞ。あちしはエンマちゃん。〈ファリック・ガール〉と呼べる存在でもあるのじゃぞー。ま、うぬらもそこらへん、変わらんと思うが、の。
ヘンリー・ダーガーやジャック・ラカンの話をするとややこしくなるので〈ファリック・ガールズ〉の話は置いておきましょう、師匠。……じゃなかった、エンマちゃん。
そーじゃのー。あちしは理科の脳内に話を刻みつけることを今回の目的にしてるだけじゃからのー。狂気を飼いならす、その足掛かりにするんじゃぞー。
腐女子たちが「こころのおちんちんがわたしにはある」と呼んだころがあったじゃないですか。今はどう表現するか知らないですが。それとラカンの「女性なんて存在しない」発言と『ファルス去勢』の話はつながっているとしか思えないし、いつか議論をしないとならないとは思うのです。
話が逸れていくな。話は分かりやすく、じゃ。うぬらは、ちと、話題が飛びすぎるのじゃ。
話を戻そう。
存在論的に不安定なひとの場合、自意識は二重の働きをするのです。
順を追って了承可能にするので、話は若干込み入りますが、そこは脳内補正でどうにかするのですよ? まず、一番目。
自己を意識すること、および他人が自分を意識していることを知ることは、「自分および他人の存在を信頼する手段」である、ということ。
フランツ・カフカの『哀願者との会話』の中で、「心の底から自分が生きているのだと思えたことは一度もない」というセリフがあるのですが。
これは、存在論的不安定という実存的立場から出発しているのです。それゆえ、彼の生活の根本問題は、自分が生きているということ、事物の現実性とに関する確信を得ることであったのでした。しかし、彼の世界は非現実的であるから、彼は他人の世界の対象でなければならないのです。なぜなら他人の対象は現実的であり、穏やかで美しいものにすら思えるからなのです。
ここで扱うカフカは『実存主義解釈』としてのカフカだね。カフカは『構造主義解釈』も『ポスト構造主義解釈』もある。まったく、カフカに「原稿を燃やしてくれ」って遺言されたけど燃やさないで発表してくれたマックス・ブロートに感謝をどれだけしてもたりないくらいだよ。発表したらブロートの人生も大きく変わってしまったのに。
ゲットーに住んでいたこと、午前中だけ仕事してその後は執筆に時間を費やしていたこと。時代背景も併せて〈トポス〉という〈場の力〉が、今みっしーが引用した部分には色濃くでていると思う。確かに、実存の問題がダイレクトに言葉になっている、ともいえるのだけれども。
〈マイナー文学のために〉よく尽くしてくれたよ、カフカは。結果としては、だけど。
話を戻すのです。最前の話の、もうひとつの要因は、時間的な自己の不連続性なのです。時間的にアイデンティティが不安定なときは、空間的な一体化の手段に訴える傾向があるのですよ。
おそらくこのことは、そのひとにとって〈見られる〉ことが非常に重要であるという現象を、ある程度説明するものではあるのです。しかし、ときによっては、時間における自己を意識するという手段が採られるのです。時間が瞬間の継起として経験されるときは、特にそうなのです。時間的自己に対する不注意から、一連の瞬間の一部が失われる場合、それは破局だと感じられるとボクなんかは思うのですよ。
ふむ。
そして、二番目なのです。
危険だらけの世界において、いつでも見られる対象であるということは、つねに危険にさらされるということなのです、〈存在論的不安定〉な〈彼〉にとっては。
その場合、自意識とは、他人に見られるという単純な事実によって危険になるものとして、自己を敏感に意識するのですよ。このような危険に対するはっきりした防衛手段は、なんとかして自分を見えないようにすることだ、と〈彼〉は思うのです。
カフカの描いた「哀願者」は、ひとに見られることを人生の目的にしている、という風に描かれたのでした。なぜなら、そうすることによって〈彼〉は非人格化、非現実化、内的死の状態を緩和できるから、なのです。
彼は自らの生を確信できないがゆえに、現実に生きた人間として自己を経験するためには他人を必要とするのです。しかしこのことは、その他人の自分に対する見方が好意的なものであるという信頼が含まれるのですが、実際にはいつもそういうわけにはいかないのです。
それは、なんでなの?
彼がなにかを意識するようになると、それは非現実的になってしまうのですよ。このような〈彼〉が、他人の意識をある程度信頼していないことは不思議ではないのです。
その場合、自分が生きているという確信を与えてくれるものとして、自分の自意識以上に他人の意識を信頼できるのか? 謎なのです。実際、このバランスが逆転して、自分の最大の危険は意識の対象になることだと感じるようになることはよくあることだ、とR.D.レインは述べるのです。
「見られたくない。けど、見られたい」という話だな。見られても自分の心につらい。見られなくても自分の心につらい。つらさの正体とそれによる〈彼〉の心の動きは、今、みっしーが語った通り、ということか。
そして、〈彼〉の自意識は〈偽りの自己〉を形成させていくのですが、それは後述するとして。
では、いったん、ここで区切るがよかろう。
なんか、自分のことを言われているみたいだったよ。
いや、思い切りうぬのことなんじゃがな……。主旨、忘れたか。ま、いいじゃろ。
   次回へつづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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