廃園の亡霊のために【第四話】
文字数 2,556文字
一方で問題になるのが、自己、および他者の現実性、アイデンティティ、自律性が自明でない、『存在論的不安定』のひと、ボクらが『肉化されざる偽りの自己』を持ったひと、と定義してきたひとたちのことです。今日はそのひとたちのお話です。
どーでもいいけどのー、これは別にセルフメディケーション的なものでもないからのー。あちしに話を振らないようにするのじゃぞ。あちしはエンマちゃん。〈ファリック・ガール〉と呼べる存在でもあるのじゃぞー。ま、うぬらもそこらへん、変わらんと思うが、の。
腐女子たちが「こころのおちんちんがわたしにはある」と呼んだころがあったじゃないですか。今はどう表現するか知らないですが。それとラカンの「女性なんて存在しない」発言と『ファルス去勢』の話はつながっているとしか思えないし、いつか議論をしないとならないとは思うのです。
これは、存在論的不安定という実存的立場から出発しているのです。それゆえ、彼の生活の根本問題は、自分が生きているということ、事物の現実性とに関する確信を得ることであったのでした。しかし、彼の世界は非現実的であるから、彼は他人の世界の対象でなければならないのです。なぜなら他人の対象は現実的であり、穏やかで美しいものにすら思えるからなのです。
ここで扱うカフカは『実存主義解釈』としてのカフカだね。カフカは『構造主義解釈』も『ポスト構造主義解釈』もある。まったく、カフカに「原稿を燃やしてくれ」って遺言されたけど燃やさないで発表してくれたマックス・ブロートに感謝をどれだけしてもたりないくらいだよ。発表したらブロートの人生も大きく変わってしまったのに。
ゲットーに住んでいたこと、午前中だけ仕事してその後は執筆に時間を費やしていたこと。時代背景も併せて〈トポス〉という〈場の力〉が、今みっしーが引用した部分には色濃くでていると思う。確かに、実存の問題がダイレクトに言葉になっている、ともいえるのだけれども。
おそらくこのことは、そのひとにとって〈見られる〉ことが非常に重要であるという現象を、ある程度説明するものではあるのです。しかし、ときによっては、時間における自己を意識するという手段が採られるのです。時間が瞬間の継起として経験されるときは、特にそうなのです。時間的自己に対する不注意から、一連の瞬間の一部が失われる場合、それは破局だと感じられるとボクなんかは思うのですよ。
その場合、自意識とは、他人に見られるという単純な事実によって危険になるものとして、自己を敏感に意識するのですよ。このような危険に対するはっきりした防衛手段は、なんとかして自分を見えないようにすることだ、と〈彼〉は思うのです。
彼は自らの生を確信できないがゆえに、現実に生きた人間として自己を経験するためには他人を必要とするのです。しかしこのことは、その他人の自分に対する見方が好意的なものであるという信頼が含まれるのですが、実際にはいつもそういうわけにはいかないのです。
その場合、自分が生きているという確信を与えてくれるものとして、自分の自意識以上に他人の意識を信頼できるのか? 謎なのです。実際、このバランスが逆転して、自分の最大の危険は意識の対象になることだと感じるようになることはよくあることだ、とR.D.レインは述べるのです。
次回へつづく!