廃園の亡霊のために【第二話】
文字数 2,019文字
医者としても「患者の行動とは、ある程度精神医学者の行動の関数である」というのを引き受けてスタートするものなのです。あくまで人間的な病であり、ひととひとの間の病、関係性の病なのですから、当然なのです。そこに「人格侮辱の言葉」を吐くこころで接してはならないと思うのですよ。それは、相手にも伝わるのですから。伝わらないと思う方がばかげているのです。
統合失調気質の亀裂は、「私」という感覚を〈非肉体化〉することによって正常な自己感覚を崩壊させるのです。〈ここ〉と〈そこ〉、言い換えれば〈内部〉と〈外部〉との境界の混同、消失、混乱の種はそれによって蒔かれるのですよ。
その場合は、自己は〈防衛的な超越〉のうちに閉じこもる必要はないのです。あるひとそのものになりきらなくても、そのひとのようになることができる。自分の存在と他人の存在を混合、融合しなくても、感情を共有することができる。〈ここ〉のわたしと〈そこ〉のわたしでないものとの、明確な区別が確立することによってのみ、このような共有は可能となるのでした。
〈防衛的な超越〉っていうのは、前に話したこともある、「自己は語られうるものであってはならない」という、『肉化されざる偽りの自己』=『内的自己』のひとの頭の中にある、自分が超越的存在であるべきだって考え方のことね。捉えどころのなさを信条とするような。
今話した段階での統合失調症にとって特に重要なことは、内部と外部に存在する微妙な点を識別し、真の自己を表現したり暴露したりしているものを、分析することなのです。そうすることによって、自己は『肉化された自己』となるのです。
でも、この話は「黙ってじっとしている」話ではないのです。「行動」を起こすのが前提となっているのです。こころもからだも環境を自分で変えなくては、話が進まないのです。臨床は大事なのですよ? 無駄に大量に出る処方箋のお薬問題は、ここでは扱いませんが。
次回へ続く!