小説家は詩情を持ちつつそれを隠せ【第三話】
文字数 1,438文字
今じゃ文学と言えば小説の、特に純文学を指す言葉になってるけどね。そして「~は文学だ」みたいな言い方をするとき、その「~」は、その作品を売るための宣伝文句であることがほとんどね。いわゆる「文学村」に攻撃を仕掛けている、とも見えて痛快なことはあるけど、その「文学村」自体が90年代には崩壊した、とも言われているわ。
まあ、「文壇バー」って呼ばれるの、まだ存在しますけどね。それはともかく、萩原朔太郎の考える文学の射程は広い。しかし、「文学の両極を代表する形式は詩と小説の二つだ。ほかはその中間に過ぎない」と述べます。朔太郎は言います。「この(詩と文学の)関係について述べねばならない」と。
「小説は本質に於いて主観的な詩的精神に情操している。けれどもこの主観性は創作の背後に於ける態度であり、事実に面した観照の態度ではない」と。『観照』とは冷静な心で対象に向かい、その本質をとらえること、または美学で、美を直観的に受容することのことを指すのです。ここから何度も出てくる言葉なので注意なのです。
「反対に小説では、これが主観から切り離され、純に知的な目で観察される」のだ、と。例として「恋愛が題なら、詩は感情で歌い、小説なら事件や心理の経路として、外部の観察によって描出される」と、朔太郎は述べます。「故に、詩は『感情のもの』と言われ、小説は『知的なもの』と考えられている」。
そうなのです。話は続くのです。「けれどもこの関係から、小説家が詩人と比して、より知的な人物とするのは間違いである。認識上に於ける主観と客観の相違、その知性の働く実質には、なんの変りもないからである」。様式上の相違のために、詩は感情によって歌いだされ、小説は客観によって描出されるものだ、と朔太郎は定義するのです。「この様式上の相違が、詩人と小説家を区別するところの、根本の態度を決定する」。