廃園の亡霊のために【第六話】
文字数 2,815文字
ほかの皆と同じようになること、自己自身というよりほかの誰かになること。ある役柄を演じること。匿名で知られざるひとになること。何者でもなくなること。そして、病気としてなら、「肉体を持っていないふりをする」こと。それらはボクらが何度も説明してきたように、ある種のスキゾイドおよびスキゾフレニアにおいて徹底して取られる防衛手段なのです。
自己は現実の生を希求すると同時に恐れてもいる。自己は生き生きと現実的になることを恐れているのです。なぜなら、そうすることによって直ちに壊滅の危険が高まることを恐れるからだ、とR.D.レインは言うのです。〈彼〉の自意識はこの「逆説」と関係があるのですよ。
スキゾイドのひとが行う自己吟味は、非常に敵意を帯びたものであると言われているのです。〈彼〉は愛情のこもった自愛を楽しむことができない。〈彼ら〉の自己吟味が一種のナルシズムだと思われている俗説は全くの誤りなのです。
〈彼〉の意識の炎がその自発性と生気を殺し、すべての喜びを破壊するのです。その下ではすべてが萎れてしまうのです。それでも〈彼〉は、ナルシストでは決してなく、そうではなくとも自分の精神および身体の動向を脅迫的に観察するものなのです。……そして〈彼〉は、対象となる自我に破壊本能を向けるのです……。
〈彼〉が『真の自己』をひとに見られないように隠し、他人に偽りの自己を見せれば見せるほど、偽りの自己を見せるという行為はますます脅迫的なものになるのです。〈彼〉は、周囲からともすると極端なナルシストで(こころの)露出狂のように思われるようになる。しかし実際には〈彼〉は自己を憎悪し、それを他人に見られるのを恐れているのです。自分ではうわべだけの偽装にすぎないと思っているものを、〈彼〉は脅迫的に、仕方なく、見せざるを得ない状態になってしまうのでした。
この場合、『自己』は自分にしかわからない、眼に見えない、超越的な存在に、〈彼〉の内部では、なっているのです。行動している肉体はもはや自己を表現するものではないのです。自己は肉体に、あるいは肉体を通して、現実化することではないのです。〈彼〉の自己は、肉体とは別個に離れて存在するのです。これも、ボクらが今まで語ってきた通りの話の変奏なのです。
それゆえに、アイデンティティ感を自分で保持できないひとや、自分が生きているということを内的に確信できないひとの場合は、他人によって生きた人間として経験されるときにのみ、自己を現実に生きていると感じるのですよ。スキゾイドのひとは、常に自己を意識することによって、自分は存在しているのだと考えるのですが、その場合は、〈彼〉はほかならぬ自分の洞察力と明晰さによって、迫害されるのでした。
1.それは「空想化」あるいは「揮発化」されたようになり、しっかり錨を下ろしたアイデンティティを失うのです。
2.それは非現実的なものとなるのです。
3.それは貧しく、空虚で、死んだようになり、引き裂かれる。
4.それはますます憎悪と恐れと妬みを抱くようになるのです。
これら四つの側面は、ひとつの過程を別々の視点から見たものなのです。以上。今回のお話はこれで終わりなのです。
だって、今まで話してきた『地に足がつかない』のは絶対的に悪いと、言えるのかしら? 「そうなるひとはいる」という事実と、その理解。それは「人間として劣っているわけではない(そして、「劣る」という言葉を使うな)」ということの理解でもあるわ。
「社会」は「社会が回るようにする」ためにある。よって〈彼ら〉を不適合とする。だがそれは「社会」から見ての話で、見方を変えれば、「人間性」として、そういうひともいる、って話。戻れないくらい人格が荒廃してしまうひともいるけど、〈彼ら〉を「病」と呼称するとき、病巣は個人の中にあるのか? 症状や気質としてはあるけど、本当は「社会にとって有益ではない」し邪魔なので病巣をそのひと「個人」の内部に求めている部分もあると思う。「病」という言葉の定義自体が、この「病」については違っているんじゃないかなって思った。
【廃園の亡霊のために】Q.E.D.