地下室からのコナトゥス【第十一話】
文字数 1,471文字
バトラーはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」が喚起する問題が、二十世紀フランスの思想界でも反復していた、とみなすのです。なのでこれから、「主人と奴隷の弁証法」の解釈と、それが喚起する問題はなにか、というのを見ていくのです。
バトラーはヘーゲル『現象学』での「主人と奴隷の弁証法」の読解を通じて、ヘーゲル的主体が他者との相互承認に失敗する〈由縁〉を、その主体が「身体」を排除している点に求めているのです。バトラーは、この「身体」の問題は二十世紀フランスで何度も反復されているとし、解決の糸口はフーコーの思想にある、とみるのです。
語るのは〈ジェンダー〉の話だ、ということと、「身体」の問題に触れるというのはよく理解したほうがいいと思うのですが、先へ進むのです。わかりますか? これから「自由と身体」、詳しくは「身体のパラドクス」という問題を見るのです。「身体的」なものと「自由」の問題なのですよ?
今まで意識、欲望という、心の問題〈だけ〉を扱ってきたけど、ついに〈身体〉の問題に突っ込んでいくのね。でも、それにはまず、コジェーヴ、イポリット、サルトルを見てから、フーコーに移っていく。そこでは各々の「主体」の考え方の違いをバトラーはヘーゲルを通して見ていくことになるけど……。
そうね……、ここで前までのところで気になるであろうことの説明をしておくけど、わたしやみっしーは『差異』って言葉を普通に使うけど、現代批評において重要な意義を持ったこの言葉の説明をしなくちゃいけないと思うの。
次回へつづく!