小説家は詩情を持ちつつそれを隠せ【第七話】

文字数 1,304文字

小説を照らし出すのは詩で、詩を照らし出すのは小説なのね。片方だけを見つめていては見えない世界が、見えてくることを願うわ……ってところから、今回はスタートね。
前回は詩にスポットをあてて、詳しく見たわね。お次は小説。萩原朔太郎という「詩人」から照射して映し出される「小説」とは?
「小説家は、概して趣味が世俗的で、気風が世間的にできている。故に彼ら小説家は、男女の情事に聞き耳を立て、市井の雑聞を面白がり、社交や家庭に潜り込んで、新聞記者的な観察をする。彼らの題材は、すべて此処からできている」と朔太郎は述べます。売文屋なんて言葉があるくらいですから、あながち間違っていないかもしれませんね。
みっしー。小説家に喧嘩売って大丈夫? わたしは助けないわよ?
それはともかく。
反して詩人は、世俗的な趣味を持たないため、小説を書こうとも題材がなく、より超俗的な詩の方に這入ってしまう、と。故にこの限りに於いて、小説は確かに俗衆的であるけれども、芸術として本質上では、俗衆主義のものではない、と定義するのです。
小説家であっても、詩人であっても、芸術家は本質上に於いて俗物であってはならない。此処に言う「~俗物」とは、価値意識の全般にかかるところの、広義の人間良心を持たない人間ということである、とします。
最後に朔太郎はこう付け加えます。「芭蕉は言っている。『高く持して俗に帰す』と。小説家にとっては金言だろう」と。でも、詩人の悪い癖で、この言葉はもちろん全肯定しないのです。
「しかしながら詩は、他の別の意味に於いて、やはり小説が持たないところの、特殊な芸術的超俗性を有している。したがって詩は、世間的には小説のように普遍されず、公衆としての広い読者を持ちえない。この点で詩は、一般に言われる如く貴族的なのかもしれない。しかしながら詩の本質的精神は、不思議にも民衆と通ずるところの、全く同じ線上に立っている」……これで締めくくりなのです。
さらに、追記というか、脚注もあるのよね。
「詩人は哲学を持たねばならぬ。しかし、詩に於いては隠すべきだ」というゲーテの言葉は、転用して小説に言うことができる。
「小説家は詩を持たねばならぬ。しかし、小説に於いては隠すべきだ」と。以上、萩原朔太郎『詩の原理』からだったのです。
わたしの質問へのアンサーをまとめると。詩と小説の違いは、詩は主観で本質を捉えたものを主観で表現するもので、小説は、主観で本質を捉えたものを客観で表現することだったわね。その両者に通ずる本質とはなにか。それは〈詩〉……言い換えるなら〈詩情〉ということになるわね。文学である点において、両者は詩を持たねばならない。しかし感情で吐き出して歌うか、詩を隠して客観で物語るか。その違いだった。
そして、小説と散文詩の違いだけど、やはりその態度の問題だった。散文詩は、詩と同じく、感情で歌うものだった。
お姉ちゃん、みっしー、お話はその辺にして、お風呂入っちゃいなよー。お酒も用意したよー。
詩人と言えば、酒ね!
小説家と言えば、酒なのです!
もー。二人とも、結局、お酒飲みたいだけじゃなーい。
 小説家は詩情を持ちつつそれを隠せ Q.E.D.
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色