地下室からのコナトゥス【第十二話】

文字数 1,445文字

「主人と奴隷の弁証法」っていったいなんなのか。今日はその話ね。
「主人と奴隷の弁証法」は、自己意識がほかの自己意識から承認を勝ち取ろうとするところに帰結するのです。自己意識はみずからの「自由」をほかの自己意識から承認してもらうために、ほかの自己意識を否定するのです。結果、一方の自己意識は自己の生命を省みず自由を獲得するか、ほかの自己意識は死を恐れるあまり自己の自由を手放す。
前者が「主人」、後者が「奴隷」なのです。
奴隷は生き残るために自由を手放し、主人のために労働するのです。「肉体性(corporeality)」に固執することになるのです。
反対に主人は奴隷を働かせることで「肉体性」を逃れ、奴隷の生産物を「消費」することで自分の「自由」を享受する。
主人は奴隷の労働に依存していますね。主人と奴隷はそれぞれ、異なる仕方で「身体性」と「自由」の総合に抵抗するのです。
つまり、結果として、「主人は奴隷の身体におびえながら生きて、奴隷は主人の自由におびえながら生きる」ということになるわけね。へんな言葉の言い回しになっちゃうけど。
主人と奴隷の関係において、承認は一方的なものなのです。一方通行の関係じゃ承認は実現されない。この関係の解消には「相互承認」が必要なのです。
じゃあ、相互承認が成り立つにはなにが必要なのか。
主人と奴隷に相互承認が実現されるためには、「身体性」の媒介が必要なのです。バトラーは言うのです。「相互承認が唯一可能になるのは、物質的世界(the material world)に対する共有された方向付けの文脈においてのみである」と。
もちろん、ここで言われている「物質的世界」は「自然的世界」とは別のものね。
「自然的世界」とは「感覚的・知覚的世界」を指していて、それは意識とは区別される「対象」としての世界。それに対して「物質的世界」とバトラーが呼ぶのは「自然的世界」を「変換(transform)」したものなのです。
トランスフォーム。重要になってきそうね。
奴隷の場合、自己の「自由」を「物質的世界」として「具体化=身体化」することがトランスフォームです。このような物質的世界を「媒介」することによって他者との相互承認が可能になるのです。
主人と奴隷。主人は「抽象的な自由」を求めたために、奴隷は「生」や「身体」に固執するあまり、「敵対関係」に陥ったのでした。しかし、「物質的世界」を媒介にした「相互承認」によって敵対関係は「解消」されると、バトラーは言うのです。
ヘーゲルの「欲望の主体」は「自然的世界」を「物質的世界」に「変換」することで他者との相互承認を追おうとするのですが、それは、絶えず自己の「身体化された生」にとりつかれた経験でもあるのです。ヘーゲル的主体は、その「規定された生」を否定し乗り越えようとして、しかし、「規定された実存なしには内的な自己意識は決して生きることができない」という意味で、常に「身体のパラドクス」に陥るような主体なのです。
わたしなりの今回のまとめ。ざっくり行くわ。「主人と奴隷の弁証法」は、「他者からの承認」が互いに探求される、「他者との相互承認」の試みだったわけね。そして、バトラーによれば、これでは「他者との相互承認」は構成的に失敗する、ということを明らかにしている……と。それが「身体のパラドクス」なのね。
では、次からは「身体のパラドクス」がどう反復されているのか、コジェーヴ、イポリット、サルトルと個別に見ていくのです。
     つづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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