地下室からのコナトゥス【第十七話】
文字数 1,563文字
実はこの『地下室からのコナトゥス』に入ってから、連載を最新話まで追って読んだひとがめちゃくちゃ少ないのですよ! よって、今回でこの『地下室からのコナトゥス』は最終回にして、次回からはまたグダグダとボクらのおしゃべりをお届けすることに決めたのです!
メタ発言をしてしまったわけなのですが、問題はまだほかにもあるのですよ。
おっと、言い訳かな? 仕方ないから聞いてあげるよっ?
じゃ、わたしから。このお話は『クィア』について語ろうという趣旨だったの。でも、フェミニズムの文脈も強いじゃない。で、今、フェミニズムがすっごい批判を受けている最中で、そこでこの話が『クィア』、つまりマイノリティとして生きるには、って文脈で読むひと、少ないだろうな、って。もともと、バトラーってクィアの一翼を担ってはいるけれども、本流とは違うし。
メタすぎる発言を、ありがとう! 『死神はいつも嘘を吐く』が実写映画化される際には、『地下室からのコナトゥス』は、全削除だねっ!
えっ? なに? このチャットノベルって実写映画化を目論んでいたの? マジ? やめとけって。
うふふ、可愛いお姉ちゃん。あとで説教部屋行きだねっ!
じゃあ、最後に、『ジェンダー・トラブル』について、重要な点をまとめて、終わりにするのです。
『ジェンダー・トラブル』は、「セックス/ジェンダー」の区別をする際、ジェンダーをセックスの「文化的解釈」とみなす点が、超重要なのです。
だいたいこれ、80年代に書かれた本なのに、性差にはセックスとジェンダーがある、ってところからいまさら始めないとならないところに、今回の敗因があるわね。
「文化的解釈」、それは「生物学は宿命である」という公式を打ち破るために持ち出されたものと言っていいのです。これを詳しく言うと、「セックスの方は生物学的で人為的操作が不可能だが、ジェンダーの方は文化の構築物だ」というものです。この区別に、ジュディス・バトラーは問うのです。
なにを問うのかというと、ジェンダーが男と女という「二つのもの」とあらかじめ仮定されていて、「ジェンダーとセックスのあいだの模倣関係」が信じられていた、という点を、です。
言い換えれば、「セックス/ジェンダー」の区別はそもそも区別ではないのです! 模倣関係の枠組みのなかでジェンダーを「二つのもの」として統制する政治的カテゴリとしてセックスが働いていることが暗にしてあるのですが、そもそもセックスそれ自体が「ジェンダー化されたカテゴリ」なのだ、とバトラーは言うのです。
よって、バトラーは『ジェンダー・トラブル』のなかで「セックスはつねにすでにジェンダーである」と強く主張するのです。
そういうわけで、今まで「自然的」とみなされていたセックスのカテゴリを批判的に分析することを、バトラーは『ジェンダー・トラブル』において、することになっていくのでした。
日本のマンガ文化にはすでに「TS(トランス・セクシュアル)」っていうのがジャンル的に確立されているけどねっ! トランス・ジェンダーもあるよっ!
そういうことなのよね。ちづちづが今、言った通りよ。バトラーの射程はもっと広いけど、でも、ちづちづが言うように、時代はもっともっと進んだ……かに見えるわよね。
そういうわけで、ご飯を食べるのです。おなかすいたのですよ?
お姉ちゃんもみっしーも、イカソウメンでも喰っていやがれ! って、思うなぁ、わたしは。今回の話はなんだったの?
うーむ。基礎的なことをやるはずが、遠回りをしてしまったわね……。
マンガ文化を舐めないでほしい、って結論で手を打つのですよ?
本稿は藤高和輝『ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い』を大きく参照して執筆しました。
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