小説家は詩情を持ちつつそれを隠せ【第四話】

文字数 1,180文字

詩人と小説家の違いの話を、掘り下げていきましょうか。
ですね。
「詩人には真の小説が創作されず、小説家には真の詩が作れない」というお話です。
詩人は常に、世界を主観的に眺めるために、認識が感情と結合している、と詩人である萩原朔太郎は言います。詩人は小説家のごとくリアリスティックに真に客観された存在を観照し得ない、と。反対に小説家の場合は、何事に対しても客観的。外部からの観察を試みるのだ、とするのです。故に、小説家は詩人の住んでいる「心情(ハート)としての意味の」世界には入ることができない、と言うのです。
だから、「詩人には真の小説が創作されず、小説家には真の詩が作れない」のね。
小説家の作った詩は、根本的なところで、詩の生命的要素を持たないのです。それは、詩を「心情(ハート)」で作らず、知的な「頭脳(ヘッド)」でつくるからなのです。
反対に、詩人が作った小説は、感じが生ぬるくて、真の小説的現実感に徹しない、と。
『猫町』という短編小説を書いたりと、小説でも試行錯誤していた朔太郎だからこそ言えることなのかもしれないわね。
詩人と小説家の一致点は、人生観に於ける本質の「詩」だけだ、と朔太郎は書いているのです。芸術家としての態度に於いては、全然素質が違う、と。理科が今、述べた通りなのですよ。
心が切り替わるスイッチでも持っていなければ、詩と小説の両立は無理って考え方ね。萩原朔太郎は。
「小説家は主観的なセンチメントを一切排斥せねばならぬ。この点で自然主義は、小説のまさに小説すべき典型の規範を教えている。小説が小説たるためには、観照の形式上で、詩から遠く離れるほど好い」というのが、朔太郎の立場なのです。
「小説にして詩であるものは、一種の『生ぬるい文学』に過ぎない。しかも精神に於いて見れば、真の小説には詩的精神の高調したものがなければならない」と。精神には詩的精神が高調しなければならない、つまり詩の心がなければならないのですが、『観照の形式上』、詩とは遠く離れた、客観のものである必要性があるのですね。
一人称の地の文がポエムになっちゃダメなのか。わたしも気をつけないと。
ここでまとめなのです。「つまり、科学が人生に於いての詩の逆説であるがごとく、小説は文学に於ける詩の逆説である」と。自然主義の主張が、小説を『科学のごとく』と言い、一切詩的なものに挑戦した所以がここにあるのです。「実に自然主義の文学論は、逆説によって説かれた小説道の極意である」と。
ジャン・ジャック・ルソー『告白録』が自然主義の元祖、という話も、いつかしたいわね。
そして自然主義が日本に入ってきてガラパゴス化した、私小説というものについても、語らなくてならないでしょうね。
この頃にまかれた種子が花咲くのは、もうちょっとあとのお話なのです。
じゃ、次に進みましょうか。
   それでは、次回へつづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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