地下室からのコナトゥス【第七話】
文字数 1,511文字
『現象学』はまず「意識」をその「存在論的舞台」とするのです。ヘーゲル哲学における「意識」とは、「対象ー意識」と訳されるのです。そこでは「意識」とその「対象」は存在論的に区別される両極なのです。対して「自己意識」においては自己自身が意識の対象となるのです。
『現象学』が「主体を待ちながら」、「欲望」という「登場人物」が最初は「現れていない」のを確認する必要性があるのです。この劇においては、欲望は〈「自己意識」章〉の「自己自身の確信の真理」に至ってはじめて「現れる」。でも、その「欲望」が「現れる」のはいかにしてなのか?
説明するのです。「存在論的舞台」はそれに先立つ(存在論的)舞台の「失敗」によって生み出される、とこの間、ボクは言いました。言い換えるとそれは「欲望を可能にした存在論的舞台とはなにか」ということなのです。そこで、「欲望」の「先行者」である「意識」の経験をみていく必要性があるのです。
「欲望」が「現れる」のはいかにしてか。この問いの答えを述べると、こうです。いろいろあってそれを「統一」する試みが『自己意識』で、その自己意識が最初にとる形態こそが「欲望」だから、ということなのです。で、その〈いろいろあって〉の、その〈いろいろ〉を、これから説明していくことになるのです。
言い換えると、意識が対象ないし世界から存在論的に区別されたものであったにもかかわらず、「意識自身がその世界の真理の規定に参与している」というパラドクスです。かくして、〈意識〉が「絶対的現実を規定するという主要な存在論的役割を担っている」ということになってしまうのでした。
次はヘーゲルの言う〈力〉の話からするのです。ヘーゲルの「悟性」の「説明」として、今述べてきた「意識」が「自己意識」へ移行することが本質的であるという話、それから、その「自己意識」こそが「欲望」なのである、という流れになるお話なのです。
次回へつづく!