探偵ボードレールと病める花々【第十一話】

文字数 1,658文字

生理学ものの発端には、いわゆる九月法令、1836年の「校閲規制強化措置」があるのは間違いない。この法令は、風刺の訓練を積んだ有能な画家たちの一団を、政治的領域から駆逐してしまった。この、版画での駆逐が成功した以上、政治の術策が文学でも効いたのは、言うまでもないことだった。……というのが前回のお話ね。

この〈文学〉は、社会的にも怪しげだった。生理学ものが読者に提示する特徴的な一連の顔は、変人あり凡人あり、甘い顔あり渋い顔ありだったけど、共通するところがあった。それは〈無害〉ということであり、それはこの上なく〈善良〉だった。隣人たちをそういう風に見ることは、あまりにも経験とかけ離れているから、異常なまでに有力な理由があってできてると考えることでしょう。
そうなのです。その「理由」とは、特別な性質の〈不安〉だったのです。人々は大都市に特有のひとつの新しい事情、なじみにくい事情と、折り合いをつけねばならなかったのですよ。
ここで問題になることを、ゲオルグ・ジンメルは、言葉にしたことがあるのです。見てみましょう。
「聴かずに見る者は、見ずに聴く者よりはるかに不安である。この点に、大都市の社会学にとって特徴的ななにかがある。大都市での人々の相互関係は、眼の活動が耳の活動よりも文句なしに優勢であることによって際立っている。その主要な原因は公共交通機関だ。19世紀にバス、鉄道、市電が発達する以前には、人々が一語も交わさずに数十分、数時間も見つめあうことを余儀なくされるようなことはなかった」と。
それが特殊な事情。言い換えると、〈不安〉のもとってことになるのね。
ゲーテの言葉が浮かぶのです。「人間は誰でも、最良の者でもいちばん惨めな者でも、ひとに知られればみんなから嫌われる種になるような秘密を持ち歩いているものだ」と。
こういう、ひとを不安にさせる考えを、取るに足らないものとするために、生理学ものは最適だったのね。
人々が互いに友好的だというイメージを提供する仕事である生理学ものというポケット版小冊子は、それなりにパリの生活の幻像(ファンタズマゴリ)の一端を担ったのですね。
生理学ものは断言するのです、誰でも専門知識に関わりなく、通行人の性格、素性、習性を見て取ることができる、と。
市井のひとたちが〈探偵〉になるわけね。少なくとも、素人探偵がたくさん生まれる土壌が生まれた。
生理学もののその確信を、他の誰よりも振り回したのは、バルザックだったのです。曰く、「人間に内在する天才は、大変目立つものなので、どんな無教養な者であれ、パリを歩いていて大芸術家に行き会えば、すぐにそれと気づくだろう」と。
観察眼と、それに伴う不安の解除を、生理学ものは提供したのね。少なくとも、そのつもりだった。
ボードレールの友人で、文芸娯楽欄の小巨匠であるデルヴォーは、地質学者が岩石のなかの層を識別するようにたやすく、パリの公衆を階層別に識別できると主張したのです。……そういうことができるとすれば、ボードレールの次の問いにも、ただの言葉の綾に過ぎなくなるのです。抜粋するのです。
「文明世界の中でに日々生じるショックや紛糾に比べたら、森や大草原の危険などがなんだろう。大通りで自分の犠牲者の腕を取っているにせよ、人里離れた森林で獲物を刺し貫くにせよ、ここでもそこでも人間は、依然として猛獣のなかの猛獣ではないか?」
ボードレールはこの犠牲者に対して「デュープ」という表現を用いるのよね。この語は、だまされる者、鼻づらを取られて引き回される者を意味するわ。
それはともかく、大都市が怪しげになればなるほど、そこで行動するには、ますます人間知が必要だ、と人々は考えたの。
そんなわけで、生理学ものはそういう特性を持ち、人々に親しまれたのです。
では次は、生理学ものが廃れる話からスタートするのですよ?
嬉々として語らないの、みっしー。もう! めっ!(みっしーのおでこに、弾いた指をぶつける)。
はぅぅっ! なのです。
それじゃ、先へ進みましょうか。
   つづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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