アルケーから遠く離れて(下)

文字数 2,823文字

抽象化したものを元に戻し、具体性を帯びた話にできない今の理科は、おそらくは概念把握能力がダメになってるとみて間違いないのです。
でも、お姉ちゃんがもっとうまくやればジョージ・エリオットやトルストイみたいな『介入する語り手』の話になるんじゃないのかな。
コメントを加えたり、物語と直接関係ない思索を披露する語り手、の出てくる小説だね。
むむ。ちづちづは名前がすらすら出てきて偉いのです、さすがボクが愛する女の子なのですよ! あいらびゅーん。語りの不純さが露呈するとか言って小説の美学からは否定されやすい『介入する語り手』問題なのですが、メタフィクションやポストモダニズムでは常套手段なのです。
えへへ。みっしーに褒められちゃった。
うーん。みっしーが言ってるのはわたしがひきこもってるって軸と、「小説が書けない小説」を執筆していて、スランプをごまかしているっていう軸の、二つの違った軸があるんじゃないかな。例えばレインの『肉化されざる自己』の話は心身の話で、『概念把握能力』の話はわたしのスランプの話よね。
お姉ちゃんもお外で遊ぼうよ!
うーん。
お外で遊ぼう! エクセレント、ちづちづ! 野外活動サークルでもつくるのですよ! 「野クル」をつくってキャンプをゆるく行うのです!
いや、つくらないわよ、野外活動サークル。
精神的に追いつめられると「心身の分離」がなされてしまうのです。現実のすべてが自分と関係がないように思える。その『離人』は決して「まどろんでいる」わけではないのです。妄想狂的陰謀論ではなく、『現実そのもの』によって迫害されていると認識しだすのです。その『離人』、言い換えれば自己の非肉体化は、世界を超越して安全になろうとする心の防衛機能でもあるのですよ。一時、理科が本当にその状態になってしまったのは知っているのです。
その思考を蹴破るために、また同人誌を書いているんじゃないかな、とわたしは思ってるよ。だから、ある意味大丈夫なんだよ、お姉ちゃんは。これはきっとみっしーのツンツンデレデレした愛情表現だよっ! そうでしょ、みっしー。
フッ。「テクストの外にはなにもない」……。
デリダの言ですね、理科。今までの話をちゃぶ台返ししたようにも思えるのです。
わたし、眠くなってきたよっ。
概念オタクにならないために、概念把握能力について説明したほうがよさそうです。概念把握能力の上位認識能力は悟性・理性・判断力。下位認識能力は感性。感性は直観によって表象を行うのですが、悟性は理性的な判断力で認識を行うのです。この認識が概念把握能力と呼ばれるものなのです。人間の悟性は固有の形式があるのです。人間認識に際し、すべての可能なものに対してはこの、悟性の固有の形式が適用され、悟性による表象が可能となるのですよ。人間が外界のものを認識するとき発見する因果性は純粋悟性概念によって保証されるのですよね。この純粋悟性概念は感性での認識の対象にならない、悟性の対象となるもののみに当てはまるのです。
悟性的思考は「本質」を捉えようとし、法則を見出す。でも、その特性ゆえにそこで得られるものは単なるデータの寄せ集めでしかなくなる。
なにか言いたそうですね、理科。
『ロゴス』の話をしたほうがいいと思ってね。哲学においては、「真理・理性・論理・法則」をロゴス、と呼ぶ。
ロゴスはギリシア語の『言葉』の意、なのですが。神学においての『ロゴス』は、万物の起源、基礎のことを指すのです。言語学において『ロゴス』はテクストの背後に存在する、意味、現前、観念、意図であり、言語はテクストの背後のそのロゴスを表現するための手段に過ぎないのです。ロゴスというものは指示対象としての『記号』を副次的な地位にするものでもあるのです、この場合は。
真理や理性、って言葉を聞いてね、ふとロゴスについてしゃべらないといけない気がしたの。ただ、やっぱり『ロゴス中心主義』は批判の対象となった話もしなくちゃね。
『近代』は理性の時代であった、という。それを超克して脱中心化を、みんな考えるようになったのが『現代』だ、という空気が、あったらしい。脱構築(ただし、この理性に基づく合理的な思想はドイツの話をしているので、本当はフランスの現代思想の脱構築を引き合いに出すのはおかしいのですが……)などです。だけど、本当に「理性」で動いたことが世界にはあったのか? そこから『近代』は『未完のプロジェクト』と呼ばれる。まあ、ハーバーマスのあの本は評論集で、本のタイトルがそのまま論じられているわけではないのですが。
ポストモダニズムの多くは起源探しを批判の対象とする。だから、ロゴス中心主義の徴候のひとつである音声中心主義を脱構築するために、『原(アルシ)=エクリチュール』という、パロールに先立つエクリチュールの概念を想定する。とはいえ、起源を指すアルケーはアーキタイプの語源の一部だし、フーコーのアルケオロジーの語根にもなっているわね。
パロール(音声)の元となる差異のシステムは本来、エクリチュールを起源とする、としたのがデリダ。そこからさっき理科が言った「テクストの外にはなにもない」という言葉が出てくるのです。
『パロール=話し言葉』は文脈依存的すぎるんだよ。まっさらな気持ちでテクストは読むことができるのに。確かに、アルケーというのを考えたとき、『エクリチュール=書き言葉』こそを、わたしはもっと考えるべきだったと思った。文脈依存に陥らないで読もうとしても読めるもの。コミュ障で話し言葉が下手なわたしの、希望でもある。コミュニケーションは文化依存的・文脈依存的すぎて、そこには音声中心主義がはびこっている。話し言葉って、特性上、断定できないものがほとんど。噂話なんかが良い例よ。パロールの悪意が世界を覆いつくしていると感じるときもあるわ。
これはいずれ『記号』の話をしなくちゃならないですね、理科。記号論はテクストの意味作用体系の全体、テクストを読むために理解しなくればならないコードと約束事を対象とするからです。
シニフィエよりシニフィアンの方をこそをとりあえずは見るって話になっちゃうじゃない、記号だ、って言った場合。さっきの心身の分離の話になっちゃうけどさ、いったん離陸したら着陸しなくちゃならない、っていうのと接続される気がするのよね。わたしには実存的な問題があるって言われつつ、現実からいったん遊離しなくちゃならない言語の世界の問題を扱うのは、みっしーはどう思って言ってるの?
寒風摩擦する勢いで体力つけるのです。物書きは体力勝負の部分もあるのですよ? 悩みを吹き飛ばすのです!
昭和を代表する文豪の一人が太宰の小説を読んで口をついた感想みたいなのを、ありがとう……。
ところで、スランプの話だったんじゃないかな?
体調が悪いのですよ、理科。己の心身の健康に気を遣うのです。
お酒はなるべく控えてねっ☆
ぐぬぬぬぬ……。解せぬ。
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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