地下室からのコナトゥス【第十四話】

文字数 1,584文字

サルトルが「もし、セックスが単に用具でしかなく、ひとつの根本的なセクシュアリティの象徴でしかないとしたら、どうなるだろうか」と、問いかけたところから、今日はスタートね。
それで、有名な話だけど、サルトルは性的欲望においての他者体験をサドーマゾヒズムの「循環」によって説明してるのよね。
サディズムマゾヒズム……きゃっ。
一応補足しておくと、サディズムの語源はマルキ・ド・サドという作家の名前から。マゾヒズムはマゾッホという作家名から来ているわ。
今回は関係ないけど、ロリコンはロリータコンプレックスの略で、ナボコフという作家の『ロリータ』という作品が語源よ。でも、ロリータのヒロインはニンフェットと言って、体つきは大人で、心は年相応のおバカさんだ、っていうのが、小説の中での話なの。あと、ショタコンは日本語の造語で、『鉄人二十八号』の主人公、正太郎くんという半ズボン少年が語源だろうとする説が一般的ね。
サディストは「快楽」において自己を身体化せざるを得ないのです。反してマゾヒストは自己の対象化であり、それによって他者を自由な主体として立てるのです。
ところがマゾヒストが自己を道具に変えることを意識するとき、自己の自由、対自存在を露わにしてしまうので、そのとき他者が道具的な地位に結び付けられてしまうのです。
と、いうことは、「主人と奴隷の弁証法」にならず、「主体であるとともに対象であることの不可能性」を示し、止揚されない「循環」になるのです。
ちなみに「止揚」は、「アウフヘーベン」の訳語ね。
「循環」はサルトルにとって他者関係を規定する構造となるのです。サルトルにとって「性的欲望」の議論はまさに「身体」が「対象」として分離されえないことが示されている、といえるでしょう。そこでは意識と身体の関係性は「混濁した」ものなのです。バトラーはそれに関し、「事実性はもはや外部にはない。それは自分自身の肉の経験である」と言うのです。
このように「性的欲望」が「主体であるとともに対象であることの不可能性」は存在論的、抽象的な条件というよりは「肉の経験」から導き出されたものなのです。
この意味でサルトルはヘーゲル的主体の「身体のパラドクス」を反復しているのです。「性的欲望」の議論では意識の「肉体離脱」が不可能なので、この不可能性を「身体のパラドクス」に求めることになってしまうのです。
じゃあ、その「身体のパラドクス」は、乗り越えられるかどうかが課題になるのね。
そういうことなのです。
サルトルについては言いたいこと、たくさんあるんだけどなぁ。
どうせ『カミュ=サルトル論争』の話などでしょう、理科はそういう奴なのは知っているのです。
いやさ、わたしとしては、サルトルがアンガージュマンとか言い出して、レジスタンス活動などに関与していったのは、カミュとの論争の内容と関係があると思うのよ。それに、論争の内容だけじゃなくて、カミュとの関係性ね。カミュは早世してしまうのだけど、カミュの早世がサルトルをさらに、加速度的に駆り立てたかのように、わたしは思うの。そんなの、ウィキやネットには書いていないことだけど。どうしても、それを思ってしまうのよ。
お姉ちゃん、ボーイズラブ妄想がついにここまで悪化してしまったんだねっ!
違う違う! 違うって!
次はフーコーに移るのですが、この話の最初に、バトラーはアクティヴィニズムに参与した話をしたじゃないですか。サルトルはアンガージュマンといって、社会参加や政治参加を大衆に呼びかけたのです。そして、フーコーもまた、社会参加を呼びかけます。このライン、つまりサルトルとフーコー、特にフーコーの、活動するところにもバトラーは呼応していると思うのです。
ここらへんについても、そのうちじっくりやっていきたいわよねー。
なにはともあれ、次回へつづく、だねっ!
     つづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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