探偵ボードレールと病める花々【第十話】

文字数 2,323文字

1840年代のパリで絶頂期を迎える「生理学もの」と呼ばれたジャンルの本の話を、今回はしていくのね。
それはボードレールたちが、表舞台に出る前のお話よ。
パリの大衆によって消費されることを狙って、愛好されたのが「生理学」と銘打たれたポケット版の、地味な小冊子の数々だったのです。
これらの小冊子が追及していた対象は、市場を実地に見る人間が出逢う諸類型なのでした。パリの生活を彩る人物で生理学者の目を逃れたものはいなかった、とさえ言われるほど、彼らはことごとく素描されたのです。
このジャンルの絶頂期は1840年代の初めにあたる。当時のジャーナリストはこのジャンルで、腕を磨いたの。ボードレールの世代はみな、これを通過している。ボードレール自身はこれにさしてかかわりをもたなかったけど、このことはボードレールが早くから独自の道を選んだことを示しているわ。
それで腕を磨いていったっていうの、なんだか、今の日本で言うところのウェブ媒体の小説やライターのお仕事みたいだねっ。ウェブライターさんの実績つくりの話を読んだことがあるけど、それをほうふつとさせるなにかがあるね。ね? そう思わない? お姉ちゃん、みっしー。
ですねぇ。おかえりなさいなのです、ちづちづ。
ただいま。
うーん。でも、小説の場合はちょっと違うかもなぁ。ウェブ出身だとだいたいは「書籍『化』作家」という言われ方をするしなぁ。もしちづちづが言うように当時の「生理学もの」の本は、一世を風靡している、って意味で異世界転生とか悪徳令嬢みたいな話なのかなぁ。同じネタ(ジャンル)で競い合う。各々の独自路線は別にあっても、共通ジャンルで腕を磨こう、ってひとは確かに多いよね。
みっしーとしてはどうなのかしら。
理科がなにを言ってるか、ちょっと返答に困るのですが、議論の先取りをするのです。……この「生理学」というジャンルは、当たり障りのなさがウリのひとつだったのですが、それは表現規制の話を考えるのにいい材料になるかもなのです。結局、ユゴーやボードレールは出てくるわ、ボードレールはエドガー・アラン・ポーの翻訳をするわで。ちなみに、前に話したように、ボードレールは作品の削除命令が出たのです。そこらへんも考えたいところなのです。
1941年には新しく76冊の生理学ものが刊行されたの。この年以降、このジャンルは衰退に向かい、やがて市民王政の消滅とともに消え去った。
なぜかというと、生理学ものは偏狭な視野から抜け出せなかった、言い換えれば、「無害なことが肝要だった」からなのです。
遡って。生理学ものの発端には、いわゆる九月法令、1836年の「校閲規制強化措置」があるのは間違いないのです。
この法令は、風刺の訓練を積んだ有能な画家たちの一団を、政治的領域から駆逐してしまったのです。この、版画での駆逐が成功した以上、政治の術策が文学でも効いたのは、言うまでもないことなのでした。
生理学ものの叙述ののんびりした調子は、アスファルトの上を、いわば植物採集をして歩く遊民(フラヌール)の様子と符合する。
しかし、なのです。当時すでに人々は都市のいたるところを徘徊できない状態だったのです。オスマンによる都市改造計画以前には幅広い歩道はまれだったし、狭い歩道では、やってくる馬車から安全ではなかったほどなのです。もし遊歩道(パサージュ)がなかったら、遊歩が意味深いまでに発展することは難しかったと思われるのです。
ボードレールが伝えるところによると、コンスタン・ギイはこう語っているのです。「群衆のなかで、退屈するような人間は、愚かだ。愚かだ、と僕は繰り返して言う。それも見下げ果てた愚か者だ」と。
パサージュは、街路と室内との間の、中間物なのです。生理学ものの筆法について言うならば、その技巧は新聞の文芸娯楽欄ですでに実効をあげたもの、すなわち大道を室内にするというやりかたであって、こうして街路が遊民の住居となった、とヴァルター・ベンヤミンは言うのです。
多様きわまる生活、無尽蔵の変化に満ちた生活が繁栄しているのは、せいぜい灰色の石畳の間でしかすぎず、その背後には専制政治がある、というのが生理学ものの類の文学の、内々の政治的な考えだった……。
無難なもの以外は消されるかもしれないという、専制政治のなかでやっていくしかない書き手たちは、それでも生理学もので腕磨きをしていたのです。もしかしたら時代が変わったときに〈なにか〉を書くために、今は流行りのジャンルで腕を磨こう、と思っていたのかもしれないですね。
うーん。ますます、一部のウェブ小説作家さんたちみたいだね! そう思わない、お姉ちゃん?
え? わたしに振るの、この話題。そうねぇ。伝わりづらい自分の世界観を持っていて、そしてたくさんのひとに言いたいことがあって伝えたいタイプの作家さんだったら、流行りジャンルから始めて、書きたいことを書いて伝わるようになるのを虎視眈々と狙うかもねー。
「狙うかもねー」なんて、軽いノリですね、理科。時代が許さない状況下での生存戦略のお話ですよ?
ま、自分語りはしないでおくわ。逃げじゃないわよ。
時代が時代だけに、今と重ねることもできるのが凄いよね。歴史から学べることは圧倒的に多いことの実例だねー。
うぅ……、ちづちづがなんか良いこと言ってるけど、時代批判を中学生のちづちづでもしてしまわざるを得ない社会ってのも、どうなんだろうなぁ、と思うわ。
ちづちづも大人なのです!
きゃっ。嬉しい、みっしー。
今度、ボクが「大人のボキャブラリー」を身体に叩きこんであげるのです!
しよーよ!
ダーメですー!!(怒)
えー?
まったくもう。それじゃ、先へ進むわよ。
   つづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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