褶曲としての主体化(上)

文字数 1,418文字

じゃじゃーん! このお話で『死神はいつも嘘を吐く』、第七十回だねっ! めでたい! パチパチパチ(拍手する)。
第七十回目を記念して。今日はドゥルーズから見たミシェル・フーコーのお話のアウトラインを追っていこうと思うのです。記念ですからね! みなさん、お待ちかねのドゥルーズと、フーコーのお話です。
この前もフーコー、散々やらなかった?
お姉ちゃん。難しく考えるのはノンノン、だよっ!
そんなもの、なのか……な?
ドゥルーズがフーコーを論じるとき、三つのタームを指標にして論じるのです。それが「知」「権力」「主体」なのです。
タームっていうのは、「用語」のことを指すわ。特に、「専門用語」のことを「テクニカルターム」と呼ぶ。
ドゥルーズっていうのは、ジル・ドゥルーズのこと。ミシェル・フーコーの弟子筋にあたる人物で、ポスト構造主義ではジャック・デリダと並び称されたスターよ。自死してしまったけれどね。かれは難病を抱えていたの。でも、今日は伝記を語るお話じゃないから、割愛するわ。
「知」とは、言表と可視性から形成される一つの装置である、とドゥルーズはフーコーの「知」を解釈するのです。そして、言表とは言語や表現ではなく、それらによって可能なるもの、可視性は光や内容ではなく、それらによって露わになるものだ、と言います。
つまり、言語や表現は言表の、光や可視性の外部であり、派生形態だ、ということなのですね。
だが、それだけじゃないのです。
ドゥルーズによるフーコーにおいては、言表と可視性という二つの要素それ自体も相互外在的であり、言表と可視性両者の還元可能なせめぎあいが「知」を形成するというのです。
例えば、それはあたかも相互に異質な視覚的なものと聴覚的なものが浸透しあうことで映画が成立するように、そうなるのです。
映画……、ドゥルーズが『シネマ』というタイトルで映画を題材に書物を書いたのを、脚注として付け加えるべきでしょうね。
もしそうだとしたら、言表と可視性の間には、なんらかの力の関係が働いていることになるだろう、とドゥルーズは言うのです。しかし、「知」の領域では、言表の機能分析という形式的な側面からしかこの関係に接近できず、可視性はその外部として消極的な役割を果たすにとどまる、とも言うのですね。
そのため、言表と可視性が接触する場を、それとして考察する必要性が出てくるのです。こうして、フーコーは「知」の前提である「権力」の分析に向かうことになるのです。
補足するわね。『言表』は〈エノンセ〉と呼ばれるわ。構造主義の用語よ。発話されたことを〈エノンセ〉、発話行為、発話過程を〈エノンシアシオン〉と呼ぶわ。
発話者、または書き手が言語内において、「わたし」という立場を取って「あなた」に話しかけるとき、発話者はおそらくその両者を「彼ら」として指示しているわ。そのような発話が〈エノンシアシオン〉なのよ。わたしが〈発話主体〉として「わたし」と言うとき、話をするわたしと、そんな風に話しかけられる〈発話内容〉としての「わたし」は、つねに別のものとして区別することができるの。
補足をありがとうなのです。それを踏まえたうえでの話なのでした。エノンセは言表、発話と訳されるのですよ? そんな話を挟んだところで、次に進むのです。
あれれ? 七十回記念って言いながら、続き物になるんだねっ? おかしいね! 非常におかしいねっ?
うぅ……すまないのです。
   次回へつづく!
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登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

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