褶曲としての主体化(上)
文字数 1,418文字
ドゥルーズっていうのは、ジル・ドゥルーズのこと。ミシェル・フーコーの弟子筋にあたる人物で、ポスト構造主義ではジャック・デリダと並び称されたスターよ。自死してしまったけれどね。かれは難病を抱えていたの。でも、今日は伝記を語るお話じゃないから、割愛するわ。
「知」とは、言表と可視性から形成される一つの装置である、とドゥルーズはフーコーの「知」を解釈するのです。そして、言表とは言語や表現ではなく、それらによって可能なるもの、可視性は光や内容ではなく、それらによって露わになるものだ、と言います。
もしそうだとしたら、言表と可視性の間には、なんらかの力の関係が働いていることになるだろう、とドゥルーズは言うのです。しかし、「知」の領域では、言表の機能分析という形式的な側面からしかこの関係に接近できず、可視性はその外部として消極的な役割を果たすにとどまる、とも言うのですね。
発話者、または書き手が言語内において、「わたし」という立場を取って「あなた」に話しかけるとき、発話者はおそらくその両者を「彼ら」として指示しているわ。そのような発話が〈エノンシアシオン〉なのよ。わたしが〈発話主体〉として「わたし」と言うとき、話をするわたしと、そんな風に話しかけられる〈発話内容〉としての「わたし」は、つねに別のものとして区別することができるの。
次回へつづく!