アルケーから遠く離れて(上)
文字数 2,370文字
お姉ちゃんは絵とプロットを組むの担当で、シナリオ担当はみっしーなんだよね。前に同人誌つくったときはめちゃくちゃな目に遭ったけど、今度もまたつくるなんて、すごいね。わたしだったらもうやらないと思うよ。お姉ちゃんの描く表紙と挿絵、わたしは大好きだよ。
うーん。描くのと書くのが、わたしのしたいことだから。家を出てここに住むことを決めたのは、絵描きをするためだったし。同人誌作成もその一環だからね。ちづちづの療養のためでもある。嫌われ者だけど、この暮らしに満足している部分もあるのよ。
テンプレート通り、エンマちゃんは女の子なのです。地獄の十王庁は名前の通り十人の王様がいるのですが、ひとりくらい女の子でもいいじゃないですか。一応、ボクの上司の死神長に指令を出しているのが、エンマちゃんなのですよ?
それはそうと、理科ぁ。ボクは情けないのです。いつからか、理科が書くプロットは「小説が書けないことについて書く」というメタフィクションになってしまっているのです。『執筆の不可能性』とかなんとか言ってりゃそれっぽさはあるのかも、という発想をしてそうなのが、すでにルーザーなのですよ?
マラルメを引用してもダメなのです! マラルメになったつもりでも、そこから影響を受けて議論を展開させてくれるブランショみたいな人物がいるとは到底思えないのです。小説にまつわる事象を小説で表現するなんて、ありふれた手法なのですよ?
確かに、現実の事象をいったん、抽象的なレベルにしてから吟味し、再度『肉化』、つまり自分の存在している現実へと着地させるのは大切なのです。離陸したら着地しなきゃいけないからなのです。でも、R.D.レインの言葉を援用するならば、『肉化された自己』という地に足がついた自己ではなく、空疎で空洞化された、抽象性でできた『肉化せざる自己』がそのひとの内的世界になってしまうと、それはスキゾイドだとされるのです。なぜかというと、それは『離人』の一種だからなのです。抽象レベルの世界に脳内が常にいると、現実感が希薄になっていってしまうのです。『肉化』された、言い換えれば「現実に感覚がある」世界に生きていかなければ、それは本当は『偽りの自己』の始まりなのです。演技性パーソナリティでもあるまいし。なにをやっているのですか、理科。肉化されざる自己を生きる者が、現実を確かめるためにリストカットしてしまうなんて、ざらにあることなのです。気づいているでしょうが、家の外に出るのです!
わたしの概念把握能力が欠如している、と断言するみっしー。わたしはもう少し、冷静になって考える必要があると考えた。
その話は、後半に譲ろうと思う。
そんなわけで、次回につづく!