地下室からのコナトゥス【第十五話】

文字数 1,435文字

ポストモダンの思想家たちはアンチ・ヘーゲリアンとして有名ね。だけどバトラーは、彼らをヘーゲルの系譜に引き付けて考察するの。
なぜなら、「アンチ」として考えてしまうと、「乗り越え」することが不可能だから。そもそもヘーゲルの哲学そのものが「対立」によって成り立っていることを考えるといいわ。
さて。お次はフーコー。バトラーは著書『欲望の主体』の最後で、今まで見てきた問題の解決の糸口をフーコーに探ることをしている。今からそれを見ていきましょうか。
フーコーが企てたのは身体を破壊する「欲望の主体」の歴史を暴露することであった、とバトラーは言うのです。
フーコーは論文で、ニーチェの系譜学は「歴史による身体の破壊の過程を明らかにする」ものだ、と述べているのです。
バトラー曰く「『欲望する主体』の批判、そして身体の歴史を書くという計画は、主要な概念を新たに方向づけることの一部をなす。それはうまくいけば、欲望に関するヘーゲルのナラティヴの決定的な終わりを告げるだろう」。バトラーはフーコーの著書『性の歴史』を、『欲望の主体』の批判として読み直すのです。
フーコーは『性の歴史』で、欲望を権力との否定的関係で定義する認識論的枠組みを問いかける。それは欲望と権力を対立の両端に位置付ける思考の枠組みなのです。欲望は無垢な本能のようなものとみなされ、他方で権力は欲望を抑圧する法として表象される。フーコーは後者を「反ーエネルギー」と呼んでいるのです。
「欲望に対して権力が外的な介入力しか持っていないとするのなら、『解放』の約束であり、権力が欲望そのものを構成するものであるならば、いずれにしてもあなたはつねにすでに罠にかけられているということの肯定である」と。フーコーはこんな風な認識が、「はるかに一般的なもの」で、「おそらくそれは西洋世界の歴史に深く根を下ろしたものである」と、述べているのです。
ウィキでは完全にスルーされてしまっているけれども、「表象」っていうのは、フーコーが著書『言葉と物』で深めた言葉よ。もともと、「表象」っていうのには政治的意味と美学的・記号論的意味があるの。前者はある人物がほかの人物を代表することで、議会制なんかがそうね。後者は、ある媒体を用いて、いまここには存在していないものを再現することを指すの。
フーコーは『言葉と物』のなかで古典主義時代においての表象空間の成立を記述しているわ。議論の先取りになってしまうけれども、のちに、ポスト構造主義は、表象システムに対して根本的な疑義を突き付け、脱中心化を図ることになる。フーコーの『知の考古学』もその試みのひとつよ。
デリダやフーコーの影響を受けたフェミニズム批評は表象を支配する主体が男性中心主義であることを暴露する。パスティーシュや引用といった手法は表象批判のための戦術だとも言えるの。
現在もパスティーシュが政治的問題になることを思い出すといいかもしれないわね。
話を戻すのですよ。バトラーはこう述べるのです。「欲望に関する精神分析的な見方と解放主義的な見方の双方が誤った約束に条件づけられた弁証法的な袋小路に陥っていることをフーコーは主張している」と。
バトラーによれば「主体の欲望が否定性と不可避的に結びついている」という認識論的前提を問いかけている、というのです。
「西洋世界の歴史に深く根を下ろしたもの」の乗り越えは果たしてできるのか。次回はそこらへんを見ていきましょうか。
     と、いうわけで次回へつづく!
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

【田山理科】

 主人公にして家主。妹のちづちづと知らない町に引っ越し、二人で暮らしを始めたが、ちづちづがどこからか拾ってきた少女・みっしーも同居することに。趣味は絵を描くこと。ペインティングナイフを武器にする。

【みっしー】

 死神少女。十王庁からやってきた。土地勘がないため力尽きそうなところをちづちづに拾われて、そのまま居候することに。大鎌(ハネムーン・スライサー)を武器に、縁切りを司る仕事をしていた死神である。

【ちづちづ】

 理科の妹。背が低く、小学生と間違われるが、中学生である。お姉ちゃん大好きっ娘。いつもおどおどしているが、気の強い一面をときたま見せる。みっしーとは友達感覚。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色