変わる意識と走れ、メロンパン(中)
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ややこしいから、名前出さないでね。わたしたち、観に行ってないから、なにも言えないのよ。論争もそれ自体は古くて、今揉めているあの展覧会と類似したテーマの作品や展覧会はたくさんあったけど、世界情勢の悪化とSNSの普及やメディアの対応、それから注目度の高さがあったのが、今回が叩かれた要因にもなってる。時代っていう要因ね。それに炎上がまるで義憤なのかのように隠ぺいされているけど、それは全くの誤り。コンテンポラリーアートの文脈を知らないだけのひとも多いわ。確実に、ね。
ちづちづ。現代アートは批評性があるのが優れていると見做されるわ。観て「綺麗!」って言うだけがアートではないの。だからこそ、キュレーションをするキュレーターの役割の重要性が、あり得ないほど肥大化してしまったのも事実ね。
ゴキブリに話を戻すと、日本の現代美術の潮流のひとつに、サブカルの意匠を使うというものがあるのです。それで狙うのは、言ってはなんですが、日本のアンダーグラウンドで見られる、〈恥部〉とも捉えられてしまう部分だったりするのです。
虫とファックなんて、アングラでは珍しくない。でも、それを美術品にして、美術館や展覧会という〈権威〉=〈権力〉の場に配置するという構造は、マルセル・デュシャンの〈レディ・メイドシリーズ〉から続く伝統だったの。美術館という空間のシステムを暴くための、ね。
今までの話を踏まえて、メロンパンに話題を戻すのです。美術のキュレーションにも関係するのですが、様々な理由によって「〈これ〉は〈これ〉である。なぜなら〈こういうこと〉だから」という、なんらかの理由付けがなされ、それが一般大衆に膾炙された際、「そういうものなのである」という〈受け入れられ方〉をして、年月が経ったときにその「もとにあった、これをこれと呼ぶ〈理由〉がスポイルされてしまった」ということが、従来のメロンパンで行われてしまっていたのは、想像に難くないのです。
駆け足で話しちゃったけど、大丈夫かしら。
話は後半戦にもつれ込むみたいね。どうなることやら。
つづく!