136  イギリスの作家、アラン・シリトー 

文字数 1,414文字


  イギリスの作家、アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』を推薦します。
 ぼくは映画「長距離ランナーの孤独」でシリトーを知った。
 四十数年前、二十代の初めの頃だった。
 モノクロの乾いた映像世界に、一瞬のうちに引き込まれた。
 本を探した。新潮文庫初版、一九七三年。カバーデザイン、池田満寿夫。一八十円。

 主人公一七歳のスミスは、パン屋に忍び込んで盗みをした罪で感化院に入れられている。
 その彼が感化院を代表して、全英長距離クロスカントリー競技の選手として走ることになる。
 小説は一人称の「おれ」が、早朝の練習や大会で走りながら考えるさまざまなことを手記風につづられている。
 社会にどのように適応して、生きていこうかと思い悩んでいた時期だったので、主人公の自分を貫く姿勢に共感し、彼が走る足音、鼓動のリズムが心地よくぼくの身体にしみ込んだ。
「この孤独感こそ世の中で唯一の誠実さ」という言葉に力を得た。
 主人公は欺瞞や不条理に溢れた現実に「ノー」と言う。
 他人のルールでゲームはしないのだ。
「人生でモノを言うにはずるさだ。そのずるさも抜け目なく使わなきゃ駄目だ」
 感化院の所長たちが押しつける栄光を、「おれ」だけができるやり方で「ノー」を突きつける。
 しなやかに、そして効果的に。

 主人公は「ノー」と言うことにより自分が厳しい立場に追い込まれることを十分に承知している。しかし、それも出所するまでの六ヵ月だけなので耐え切れると考えている。
 なかなかに、したたかなのだ。ストーリーは言わない。手にとって確かめて欲しい。

 歳を重ねると、多少イヤなことも表情ひとつ変えずにやってしまえる。
 嫌いな相手にもニッコリ笑えるし、怒りを感じても抑えることをいつの間にか身につけてしまっていた。  
 一概に悪いことだとは思っていないが、時おりそんな自分に飽き飽きして、損・得や論理的に考えた結果ではなく、ちょっとした勢いで「ノー」と言ってしまったりした。
 その為か、ぼくは四回転職している。
 でも、今まで楽しくやってきた。

 この小説が、ぼくをリセットしてくれたからだ。
 表紙もページも黄ばんで赤く引いた線だけが目立つ文庫本を手にするだけで、それまでの自分を越えることが出来た。
 短期的に見ると「ノー」と言う行為は愚かにみえるかもしれない。
 だが二十年、三十年と経つと、そのことがぼくにとって心の支えになっていた。
 六十歳を過ぎたぼくの息切れは激しいが、この小説は今でも長い、長い伴走者として足音を響かせてくれている。
 カンニングペーパーにちらちら目を落としながらスピーチしたんだけど、「あっ」という間に五分が過ぎてしまった。
 伝えたいと考えていた半分ぐらいしか言えなかった。

 二十代に見える青年から「僕も『長距離走者の孤独』は好きです」と発言があり、「嬉しいな、今日ここに来てよかった」と声を上げて、周りから笑われてしまった。
 持っていった二冊の本、一九七三年初版の黄ばんでしまった新潮文庫と、一九七六年に出た集英社版世界の文学のシリトー『華麗なる門出』(長距離走者の孤独も所載)を見たいというので回した。

 1974年に「現代の世界文学」の第1回配本として出版されたぐらいだから、当時は人気作家だったんだけれども、いまは覚えている人は少ないようだ。
 世界文学界の一発屋という人もいる。
 でも、ぼくにとっては、今も根底を支えてくれている作家なんだ。 

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み