35 『夜が匂う夏』 初稿 3 

文字数 3,044文字


「大人やからな。気をつけなあかんのは子どもだけや」
「うちはどっちなんかな?」
「とっくに二十歳(はたち)を越えてるやろ」
 稔が二つ目のおにぎりを掴もうとすると、明美の手がさっと奪い取った。
「おいしそうに食べてる顔を見たら、お腹がすいてきたわ」
 わざとおにぎりをかざした。手の陰になった目が稔を見つめている。
「身体だけは立派な大人やけどな」
 照代が呆気にとられている稔の目の前に、おにぎりを差し出した。
 受け取った稔は、両手でしっかりと持って口に運んだ。明美の秘密めいたまなざしが気になって、味が分からなくなった。
「お母ちゃん、いつ帰ってくるんやろ」
 おにぎりを食べ終わると、稔は照代に訊かないではいられなかった。
「用事が沢山あるんやろ。稔ちゃんのことは、文枝さんに頼まれてるから、心配せんかてええで」
 手に持った団扇で稔に風を送った。
「稔ちゃんは、寂しがりやな」
 明美にからかわれたと感じた稔は声を荒げた。
「そんなんと違うわ!」
「てんご言うたりなや」
 照代に注意されて、明美は気まり悪そうに口をつぐんだ。
「稔ちゃんに頼みがあるんや」
「ぼくにかぁ」
「昼前に旦那さんから電報が来たんや。困ったことに、今晩きはるんや。どないしょう」
 照代は、言葉とは違って嬉しそうな顔をしている。
「船場のおっちゃん来はるんやな」
 稔は月に数回やってくる後藤が好きだった。挨拶をすると目尻に深いシワを寄せて、笑顔を返してくれる。白髪が目立っているけど、豆タンクみたいにがっしりした身体をしていた。
「うちやったら気にせんでええわ。アパートに帰るし」
 明美が口を挟んだ。
「あんな場所(とこ)やったら、身体を休めることでけへんやろ」
「三回も掻き出したから、もうどうなってもええわ。きっと赤ちゃんが産めない身体になってるし」
「今は何にも考えんと養生することや。今夜は焼肉にするから、あんたにも食べさせてあげるわ」
「旦那さんに、頑張ってもらわなあかんもんな」
 明美が意味ありげに言った。
 照代は口元で笑いながら、団扇で太ももをバタバタと扇いだ。
「稔ちゃんの家にも、おすそ分けするわ」
「要らんわ。お肉は気持ちの悪いから嫌いや」
「肉を食べへんから、蚊とんぼみたいに細いんやな」
 明美に、手首をつかまれた。
「男の子は、好き嫌いを言わんと、何でも食べて大きくならないと、いざって時に役に立てへんで」
「ほっといてんか」
 手を振り払った拍子に、明美の腕の内側に触れた。白くてすべすべしている肌の下に血管が透けて見える。腿の内側はもっと柔らかそうだった。

「ぼくに頼みって何や!」
 稔は声を張り上げた。昼からの用意をするために家に戻りたかった。
「急に旦那さんが来ることになったんや。そやから、明美をふた晩だけ、稔ちゃんの家に預かって欲しいんや」
「ぼく、子どもやから、頼まれても返事でけへんわ」
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。大将の前に、馬から説得しいってことや」
「そんならぼくは馬か。ヒィヒーン」
 稔は大きく鳴き真似をした。
「面白い子やな、稔ちゃんは」
 明美が、稔の頬を指でつつくので顔を避けた。
「稔ちゃんのお父ちゃんが帰ってきはったら、すぐに頼みに行くわ」
「すぐはあかん。行水するから裸になってるわ」
「それやったら、晩ご飯を食べてからにするわ。稔ちゃんはええねんな」
「うん」
 父親と二人きりだと、宿題のドリルをするか、広告紙の裏に絵を描くしか時間の過ごし方がない。明美が居てくれるのもいいと思った。
「もうひとつ、頼みがあるんや」
 買い物に出ている間、明美と一緒に居て欲しいと頼まれた。
「えっ! ぼく、遊ぶ約束してるんやで」
「テレビ、なんぼでも観てええで」
 稔は壁際に置いてある四本脚のテレビに目を移した。画面の両側にスピーカーがついているそれは、神々しく輝やいている。
「今晩、友だちの達也も一緒にテレビを観てええんやったら、頼まれてもええけど」
「稔ちゃんは交渉が上手や。弁護士さんになれるわ」
 照代は稔の頭を軽く撫ぜて、奥の部屋へ入った。
「外に出たら、ママさんに電話する?」
 明美が身体をひねって、襖に声をかけた。
「明日もお店を休むこと、言わなあかんしな」
 照代の声が返って来た。箪笥を開ける音がする。着替えをするようだ。
「うちは元気やと言うといて」
「分かったわ。でも、ふたりが休むと商売にならへんて怒るやろな」
「うち、明日でてもええけど」
「止めとき。いま無理をしたら、先で泣くことになるわ。休むことも仕事やと思って、しっかり休んどき」
「そうやなあ」
 座卓に片肘をついた明美は、また稔の頬を指でつついた。

 達也が誘いにきた声が聞こえたので、稔は玄関に走った。鍵を素早く回して引き戸を開けた。顔を出すと、達也が稔の家を覗き込んでいた。両手にバケツとタコ糸を結んである竹の棒を持っている。
 達也は稔に気付くと、右手の竹の棒を交互に指して訊いた。
「どっちが、みのるの家や?」
「今はふたつとも、ぼくの家や」
「お大尽さまやな。早よ用意せんと遅れるで」
「それやねんけどな。留守番を頼まれて、行かれへんようになったんや」
 その代わりに、達也も一緒にテレビを観ることが出来るようになったことを得意になって説明した。
「おおきに。それやったら、みのるの分まで遊ぶわ」
「ゆきこのこと、頼むわ」
「まかせとけ」
 達也は、竹の棒を握ったまま胸を叩くと走り出した。
 後ろ姿に手を振った。
「無理言うて悪いな」
 振り向くと、照代は身体にびったりとした服を着ていた。お腹の肉が締め付けられてぶるぶる揺れている。
「ハサミも包丁も隠してるけど、目を離さんといてね」
「どういうことや?」
「明美ちゃん、いま気が滅入ってるから、気いつけたってほしいんや」
「そんなん無理や。ぼく、まだ子どもやで」
「一緒に居てくれたらええねん」
 そう言うと、照代は日傘を広げた。

 稔は台所から入った。確かに包丁は見当たらない。
 部屋に戻ると、早速テレビのつまみを引っ張った。画面が出てくるまでしばらく待つ。
 明美とふたりきりだと恥ずかしいような気詰まりのような感じになった。
 テレビがおかっぱ頭に出っ歯の顔を映し出した。
「先祖代々のアホや」
 稔は明美に、これでいいかと目で訊いた。
「うちもラッパ、日佐丸の漫才は好きや」とうなずいた。
 ラッパがアホなことばっかりして、日佐丸を困らせる。
 日佐丸が「こんなん連れてやってますねん」とボヤいて、ラッパが「気ィ使いまっせェー」で笑わせる。最後の「ハハーッ、さいならー」は、稔も声を合わせた。
 耳の周りで蚊の飛んでいる音がした。首を曲げて見たけどいなかった。一度聞こえると、気になって飛ぶ音を頼りに辺りを探し回った。
 明美のなめらかな白い腕に、蚊がとまっているのを見つけた。稔が追い払おうとする手を、明美が止めた。
「ええんや。血を吸ったら逃げていくわ」
 明美はテレビを観ないで、血を吸っている蚊を見つめている。
 たっぷりと膨らんだ蚊は、踊るようにフラフラしながら飛び立った。稔は目の前に飛んできた蚊を、反射的に両手で叩きつけた。広げた手のひらは、明美の血の中にバラバラになった蚊が模様のようについていた。
 明美をちらっと見る。テレビに顔を向けたままだった。
 裏庭の光が、締め切った障子の白い紙を際立たせている。風が通らないので、団扇では追いつかないほど暑い。明美もシミーズの胸元を広げて風を送っている。
「ええもん、持ってくるわ」
 稔は団扇を置いて立ち上がった。

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