67 『王将落ち』 初稿 1 

文字数 3,131文字


『王将落ち』 (67枚)

 昭和三十五年。
 四年十二組の全員で、二人がけの木机と椅子を教室の後ろへ運んだ。浦山稔はバケツの水に浸した雑巾を絞って教室を出た。
 勉強が昼までの土曜日は、教室のほかに廊下の窓も掃除する。
 四年生になり、教室が二階に上がって二カ月が過ぎていた。
 窓枠に立つのが恐いという同級生もいるけど、こそこそ話をしたりふざけあったりしながら教室や廊下を掃除するよりも、一人で窓拭きをするほうが好きだ。同じ思いなのか、窓掃除をする顔ぶれはだいたい決まっている。

 窓に差す明るい光に目を細めた。窓ガラスの向こうに見えるユーカリの木が、校庭の真ん中に濃い影を落としている。窓を開けて木枠に足をかけた時、後ろから抱きつかれた。
「みのる。ちょっと来いや」
 幼馴染の達也だ。三年生の時は同じクラスだったが、今は六組になっている。
「矢島が頼みある言うてんねん」
 達也と同じクラスの矢島のことを、稔はメガネをかけているぐらいしか知らない。
 一クラス五十人ほどで十四組ある四年生の中で、メガネをかけているのは五、六人だけだ。
「ここ拭いてからでええやろ」
「おれが目で磨いたる」
 達也は稔の肩に顎を載せたまま顔を左右に動かす。
「見るだけでは、きれいになれへんわ」
「どうせ、また汚れるからええねん」
 達也の腕から抜け出そうと身体を左右に曲げる。さらに強い力で絞めつけられた。
 身長は稔のほうが高いけど、達也はがっしりとしていて運動神経がいい。

「そこの男子! 遊んでちゃ駄目でしょ!」
 大きな声で注意されて動きが止まる。
 顔を向けると、倉井小百合が廊下の真ん中で仁王立ちしていた。
 手にブリキのちり取りを握っている。
 風紀係の小百合は、掃除をさぼる男子を見つけると、それで頭を叩くのだ。
 最初は歯向かっていた男子も、身体がクラスで二番目に大きい小百合の迫力に負けて、今はおとなしく従うようになっていた。
 達也が稔の身体を放して、小百合に近寄った。
「メスゴリラ、スカートめくったろか」
 達也の声で周囲の視線が集まった。
 大きな目と太い眉毛のはっきりした顔立ちの小百合はメスゴリラと言われても平気な顔で、わざと声にならない嘲笑を浮かべた。
 気が強くてさっぱりとした性格なので女子たちに人気がある。メスゴリラとからかうのは達也だけだ。
「最低ね」
 吐き捨てるように言って、ちり取りを上に構えた。
 太陽の光がちり取りに反射して、銀色のブリキがまぶしく輝く。
 達也が今以上近づくと、思いっきり振り下ろす気だ。周りに集まってきた同級生たちが、面白がってヤジを飛ばし始めた。

「たっちゃん、やめとき」
 稔が達也の前に身体を入れた。
「この前、男子をグーで殴って泣かしたんやで」
 耳元に口を近づけて小さな声で言うと、達也の目が大きく見開いた。
「メスゴリラのパンツなんか、頼まれても見たないわ。代わりにおれのパンツ見せたるわ」
 達也が小百合に尻を突き出して半ズボンを下ろした。
 指が引っかかったのかパンツまで脱げている。笑い声が湧き起こる中、その尻を叩こうとしたちり取りが、達也の素早い動きで空を切る。
 廊下に笑い声が広がった。

「あとで矢島と一緒に来るから、帰らんと待っててや」
 半ズボンを上げた達也は、返事も聞かないで逃げて行った。
「 浦山くん! さっさと掃除に戻りなさい」
 小百合に促されて、稔は窓枠に飛び乗った。

 六組のホームルームが長引いているようだ。
 誰もいない教室で達也を待っていた稔は、しびれを切らして教室を出た。窓いっぱいにランドセルの群れが広がっている。
 廊下の先にある六組へ向かうと、教室から達也が飛び出てきた。その後ろに矢島も付いてくる。
「悪い、悪い」
 達也が稔の肩をポンポンと叩く。
「女の先生は話が長い」
 矢島はメガネをかけているからか、大人びた雰囲気を漂わせている。
「ぼくに頼みがあるってなんや?」
 稔が訊くと矢島は、メガネのツルを指でつまんで持ち上げた。
「今日、将棋しに正月(しょうげつ)公園へ行くわ」
 細長い目が鋭く光る。
「なんでぼくと、将棋をしたいんや?」
 稔は自分で将棋が強いと思っていない。勝つことが多かったけど、いつも際どい接戦になる。
 達也が矢島の肩に手を置いて口を挟んだ。
「こいつが将棋負けたことが無いと自慢しよるから、おれがみのるのほうが強い言うたんや」
「ぼく、お母ちゃんの手伝いあるから……」
「みのると勝負をしたいから、一人で来る言うてんねん。たいした奴やで」
 稔たちがいつも遊んでいる正月公園と矢島が遊ぶ場所は、大通りが境界線になっていた。その線を越えるには勇気を必要とする。
「すぐ、行かれへんわ」
「それやったら二時に集まろ。二時の対決や」
 達也が稔の肩を引き寄せる。
 稔は気乗りしないまま、押し切られてしまった。
「律子ちゃんが一人で帰ってるわ」
 達也が校庭に五年生の早見律子の姿を見つけた。
 正月公園で一緒に育った幼馴染だ。足を少し引きずって歩いている律子をみんなが追い越していく。周りに空間が出来ている。律子は小さい頃、自動車にはねられて右足を悪くしていた。
稔が走りだすと、達也も矢島を残して追いかけて来た。
 階段を駆け下りたところで、追い着いた達也に腕をつかまれる。
「みのるは、律子ちゃんを見ると足が速くなるんやな」
「そんなことないわ」
 達也に肩をぶつけて、手を振り払った。

 稔が脱靴場(だっかじょう)で、ズック靴の履き替えに手間取ったので、校庭へは達也が先に走り出た。後を追いかけると達也が急にスピードを落とした。
 横に並んだ視線の先に、小百合の後姿があった。四、五人の女子グループの中で頭が突き出ている。
「先に行っといて、すぐに追いつくわ」
「倉井さんのスカート、めくったらあかんで」
「何をするかは、お楽しみや」
 ゆっくりと近づいて行った達也は、小百合の横を歩いている女子との狭い間に割って入って、「風小僧の風神の術!」
 と叫びながらすり抜けた。
 風小僧は去年テレビで放送されたり、『小学三年生』に小説が連載されたりと大人気の主人公だ。今年から『少年画報』に漫画を連載している。
 小百合の前に回った達也が女子に取り囲まれている。稔はそれを横目で見て律子の元に急いだ。

「律子ちゃん、一緒に帰ろ!」
 校門の手前で追いつくと、律子が笑顔を向けた。
「たっちゃんは一緒と違うの?」
「あそこで女子と喋ってるわ」
 振り向いて、女子グループに捕まっている達也を指す。
「たっちゃんは明るいから人気者なんやね」
「そうかなぁ」
 稔は素直に同意できない。
「あんなぁ今日、将棋をして欲しいと頼まれて、二時から正月公園で勝負するねん」
 得意げに言った。
「みのるくんは、頭ええもんな」
「応援しに来てくれたら、勝てる気がするんやけどな」
 律子は家の手伝いがあるので、なかなか一緒に遊べない。
「今日やったら行けるわ」
「ほんまやで」
「みのるくんのひっつき虫になっている雪子を、将棋の邪魔せえへんように見張っとくわ」
 律子の六歳下の雪子は、いつも稔の後を付いて回っている。
「風小僧、参上!」
 達也が二人の間をすり抜けた。律子がよろけて倒れかけたのを、稔が腕を取って引き戻す。
「危ないやないか!」
 思わず大きな声になった。
「転んでもツバつけたら治るわ」
「ほんまやな」
 律子が小さく声を出して笑ったので、稔はそれ以上言えない。
「メスゴリラも、公園に来るかもしれんわ」
「えっ! 将棋のこと言うたんか?」
「時々、ヨボヨボのおじいのお供で散歩に来るやろ。そやから、今日来たら面白い勝負が見れるって教えたんや」
「たっちゃん、勝手なことばっかりしてるわ」 
「なに怒ってるのか、よう分かれへんわ」

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