40 『夜が匂う夏』 初稿 8  

文字数 3,677文字


 道路に出て、ふた筋離れた路地に入る。
 井戸で女の人たちに混じって、男の人が水を汲んでいた。
 雪子の父親だとすぐに分かった。ダボシャツではなくて半袖のシャツを着ているのは、刺青を隠すためだろう。
「おっちゃんに挨拶しないで、家に行ったらあかんやろな」
 稔は達也と顔を見合わせた。
「仁義にはずれるな」
 玄関のすりガラスだけが新しいものに取り替えられていた。窓が少し開いている。隣りの便所の臭気が、トタンの破れた隙間から漂ってくる。
「何しに来たんや」
 金田が水の入ったバケツを持って近付いてきた。
「無花果、持ってきた」
 稔が新聞紙を開けて中の実を見せる。達也も貝殻の入ったビニール袋を突き出した。
「おれは、綺麗な貝や。律子ちゃんと、ゆきこに選んでもらうんや」
「律子は誰にも会いたく無いて言うてんねん」
 酒臭い息が歯のあいだから漏れる。
「ゆきこは?」
「母親と一緒に買い物に出てるわ」
「律子ちゃんにも食べてもらってや」
 稔が差し出すと、金田はバケツを置いて両手で受け取った。
「おれのも渡してや」
 達也は新聞紙の上にひと掴みの貝を乗せた。
 気のせいか、窓の隙間が大きくなったように見えた。
「律子ちゃん!」
 稔が大声で呼びかけると、達也も声を出した。
「また、一緒に遊ぼーっ」
 西日の当たる窓に電気が灯った。

 夕食の時、明美が母親の座布団に座った。父親が何も言わなかったので稔は黙っていた。
 食べ終わって、父親がショートピースを口に咥えた。明美が徳用マッチを素早く擦って火をつける。父親が、煙草を近寄せると、ふっと息で吹き消した。
 顔を上げて何かを探るように明美を見た父親に微笑えむと、もう一度マッチに火をつけた。
 その夜、稔はオシッコに行きたくて目が覚めた。
 手は明美を探したけど、見つからない。
「お父さん、気持ちええか?」
 明かりが漏れる襖の向こうから、明美の声に応じるように父親の呟く声が聞こえた。ただならぬ様子に、少しだけ開いている襖の隙間から覗いた。
 明美が父親の背中に負ぶさるようにして、肩を揉んでいる。身体が不自然に密着しているように見えた。
 稔はふとんに戻ると、目を閉じて耳を両手で押さえた。オシッコを我慢ができなくなっても、起きることが出来ない。太ももに流れる生暖かい感触が冷たくなっても、そのままでいた。

「稔ちゃん、おねしょしてるわ」
 明美に肩を揺すられた。
 随分前に起きていたけど、寝ているふりをしていた。
 父親は特に明美と言葉を交わすこともなく家を出た。夜中の出来事が夢でないことを、濡れたふとんが教えている。
「後始末はしとくから、ラジオ体操へ行ってもええよ」
 明美は、廊下の隅に積んである新聞紙を持ってきて、ふとんに当てていた。
「これで水気を吸い取ってから天日干しするわ。ええ天気やからすぐに乾くわ」
 朗らかな明美を、稔は複雑な思いで見つめた。

 外に出て達也が来るのを待った。
「みのる、どうしたんや? 元気が無いな」
 達也が、稔を見るなり言った。
 黙っていると、稔の首にぶら下がっているラジオ体操カードを手に取った。
「昨日休んだハンコなら、俺が押してもろたるわ」
「そんなことと、違うんや」
「おばちゃんが帰ってけえへんのが寂しいんやな」
 そのことではないけど、確かに寂しい。
「おじいちゃんが病気やから、しゃあないわ」
「おっちゃんとケンカをして出ていきはったことぐらい分かってるわ」
「……」
「俺の母ちゃんが出て行った時は、父ちゃんが迎えに行くと一緒に帰ってくるで」
「お父ちゃんが迎えに行かんと、帰ってけえへんのかな」
「大人は、意地があるもんな」
 稔は、父親が母親を迎に行くことがあるだろうかと考えた。あの父親なら、絶対にそんなことはしないだろう。
 また、夜中のことで頭の中がいっぱいになった。
 照代は、明美をふた晩だけ預かって欲しいと言ったはずだ。今晩はもういない。夜中のことは誰にも黙っていることに決めた。

 夏休み生活表カレンダーに四つの×が並んだ。
 明美が父親の机の前に座り込んで、彫刻に触っていた。
「稔ちゃんのお父さん、芸術家やわ」
 父親のことを褒められると嬉しいはずなのに、気持ちがどんどん沈んでいく。彫りかけの仁王像を明美の指が、ゆっくりと撫でていく。
「触ったらあかんて、言ってるやろ!」
「おおこわ、また稔ちゃんに怒られたわ」
 明美は仁王像を机に戻した。
「うち、気持ちが暴れることがあるんやけど、稔ちゃんとこなら大人しくなると思うねん」
 言葉を切って稔に顔を向けた明美は、改まった口調で言った。
「もう少しここに居てもええやろ」
「そんなこと、ぼくに聞かんといてほしいわ」
 思わず稔は立ち上がった。
「稔ちゃんのお父さんに頼んでみるわ」
 明美は余裕のある表情で稔を見上げた。
 稔は逃げるように台所から外へ出た。
 このまま明美が家に居ると、どうなってしまうのか考えても分からなかった。一人ではどうすることも出来ない。稔は照代の家の戸を叩いた。

「おばちゃん。ぼくや」
 照代が鍵を回している間も、稔は戸をガタガタと揺らした。顔を出した照代は、身体をずらせて稔を玄関へ入れて引き戸を閉めた。
「どうしたんや?」
 あがり口の床に座った照代が訊いた。
「お姉ちゃんが、もっとぼくの家に居たいって言ったんや」
「何でまた、そんなことを言い出したんやろ?」
「夜中に、お姉ちゃんがお父ちゃんと、何かしたはった」
「夢を見たんとちがう?」
 照代は稔の言葉を、せっかちにさえぎった。
 奥の部屋から、ステテコ姿の後藤が出てきた。
「男と女のことやからな」
「寛之さんに限って、そんなことはないと思っていたんやけど……。本当やったら文枝さんに申しわけないわ」
「まず、本人に確かめることやな」
「寛之さんには、よう訊かんわ」
「相当変わり者みたいやな」
「彫刻のことしか、興味ないと思っていたのに……」
「何やったら、わしが間に入るわ。わしが原因を作ったようなもんやしな」
 稔は後藤の目尻に出来たしわが、ものすごく頼りになると感じていた。

 照代だけが稔の家にきて、明美から話を訊くことになった。明美は、稔が目を覚ましていたことを知って驚いていた。
 誤解だと言った。父親が疲れていそうだったので、肩を揉んでいたのだと説明した。
「夜中にか?」
「十一時にはなってへんかったわ。ほんまに、お父さんの肩を揉んでいただけや」
「乳くり合ったかどうかは、関係ないことや。手癖の悪い弟と同じやわ。人様のもんばっかり欲しがって」
 照代が断定するように言った。
 うつむいた明美の髪が前にかかって、表情は見えない。
「いやや、うち帰りたくない。ここに置いて欲しいわ」
 明美は両腕を自分の身体を抱くようにまわして、ゆっくりと前後にゆすった。今にも泣き出しそうな様子だった。
 稔には、五歳の雪子より幼くみえた。心臓の奥の方が、ねずみに噛まれたみたいにきゅっと痛くなる。
 ねずみに引かれた子どもは、心が全部無くなってしまうと、人が持ってる物を何でも欲しがる餓鬼になる。照代の言葉がよみがえってきた。
「でも、ぼくのほうが子どもや」
 稔は火鉢の上のショートピース缶に、じっと視線を向けて頬の内側を奥歯で噛んでいた。
 明美の心を傷つけたことを、声の響きで感じ取っていた。しかし、自分のことに手いっぱいで、それ以上考えることは出来なかった。
「お父さんは、悪さしてはらへんよ。うちが、肩を揉んであげただけや」
 明美は照代に促されるように外へ出て行った。
 稔は黙ったまま玄関に下りると、引き戸を閉めて鍵をかけた。

 工場から帰って来た父親は、明美がいなくても同じようにしている。
 稔は母親の座る場所に移動した。父親の背中しか見えない。母親はずっとこの背中に喋っていたのだと思った。
「お母ちゃんを迎えに行って欲しいわ」
 大きな背中に向かって言った。
「お願いや。お母ちゃん迎えに行ってぇな」
 ノミを打つ音しか返ってこない。
 稔はショートピースの缶を取って握りしめた。
「迎えに行け!」
 投げつけた。父親の背に当たった缶はぽとりと落ちて、畳に転がった。父親が身体をねじって、稔を睨みつける。
 父親の目は、怒りが吹き出しそうで恐ろしい目だった。
 稔が立ち上がると、父親も立ち上がって向かい合った。父親の顔が、彫りかけの仁王のように思えた。手に持っているノミの先で、おでこをコツンとやられると思った。

「お邪魔します」
 引き戸が開いて、後藤が顔を出した。
「隣の照代に面倒を見てもろてる後藤と言う者です。この度は明美のことでご迷惑をおかけして、申しわけありませんでした」
 そこまで言うと深々と頭を下げた。
「いま取り込んでいるので、帰ってもらいますか」
「そんな危ないモノをぼんに向けたらあきまへん」
 父親が手にしているノミを見て、座卓の上に置いた。
「実は、ぼんと仲たがいをさせた原因はわたしですんや」
「おたくには、関係の無いことです」
 父親が後藤に向かって行く。後ずさりしながら外へ出た後藤を押しのけて、何処かへ行ってしまった。
 照代が後藤のそばに来た。

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