第25話 王将落ち 8

文字数 3,129文字

 

 日曜日はいつものように寛之が木槌でノミを打つ音と、文江のミシンをかける音に挟まれていた。
 稔は三畳の部屋でシャツを折りたたみながら、昨日の千円札を思い浮かべる。千個の山だとこの家には収まりきらない。溜め息が続けて出る。
「みのる」
 文江に声をかけられてびくっとした。
「当て付けのように、溜め息をつかんといてや」
「そんなんと違うわ」
 いってはみたものの、たたんだシャツを数えると溜め息が出る。

 稔がそろそろ公園へ行こうかと迷っているところに、達也が顔を見せた。
「みのる! 矢島が来よったわ」
「将棋したないわ。王将が無いし……」
 厚紙を駒のかたちに切って、王将の代わりを作っていた。
「王将落ちでやったらええやん。取られへんから、絶対に負けへんで」
「他の駒やったらええけど、王将が無かったら将棋が出来へんわ」
 稔はたたんだシャツの数を文江に伝えて、広告の裏紙で作ったメモ帳を渡した。
「昨日のことがあるから、今日は五つにおまけしてあげるわ」
 文江は帳面に線を五本付け加えてくれた。
「それやったら、これから毎日溜め息をつくわ」
 すぐに頭の中で計算をした。ニ百日で千円になる。大金と思っていた千円を身近に感じた。
 昨日の文江の毅然とした態度が蘇る。あそこで千円を貰っていたら、溜め息はニ百日で終わらないかもしれない。そう考えると少し気が晴れて来た。
 文江から受け取ったメモ帳をタンスの小物入れに戻した。

「律ちゃんを誘って行くからな」
 稔は外に出ると達也に声をかけた。
 うなずいた達也がポケットからキャラメルの箱を取り出した。
「昨日、四個食べたけど、みのるの分は残してるからな」
「要らんいうてるやろ」
 昨日の場面を思い出すと、もう一度キャラメルの箱を投げつけたくなる。
「そしたら、全部おれのもんや」
 達也がキャラメルを口に入れて、ねちゃねちゃと音をたてて食べる。
「あぁおいしい。みのるも食べたらええのに」
「要らんわ」

 国道に出て、ふた筋離れた路地に入った。
 コールタールで黒く塗られているトタン屋根の古い家が、井戸を囲んで寄り添うように建ち並んでいる。錆びたトタン塀で囲んでいる共同便所の隣が律子の家だ。
 ガラス戸に呼びかけると、雪子が飛び出して来た。
「お姉ちゃんは、お父ちゃんの手伝いに行きはった。みのるくんに謝るように頼まれてるわ。ごめんなさい」
 雪子が前屈をするように頭を下げた。
「うちも一緒に連れて行って欲しかったのに、お姉ちゃんがあかんっていうたんやで。一人でずるいわ」
 不満がたまっていたみたいで、一気に喋った。達也がキャラメルを一個渡すと、飛び上がって喜んだ。
「みのるが要らんいうから、雪子にあげるんやで」
「うわぁ、みのるくん、おおきに」
 稔はうなずくしかなかった。
「みのるも食べたらええねん。何かあったか知らんけど、キャラメルは甘いで」
「要らん!」
「何でムキになってんねん!」
「ケンカはあかんで、キャラメル要らんかったら、うちが欲しいわ」
 達也がもう一個、雪子に渡した。
 雪子は「お姉ちゃんにあげる」とスカートのポケットに入れた。
 律子は手伝いで、嫌なことをさせられているのではないかと想像するだけで、胸の内側が痛くなる。雪子と手を繫いで公園に行くあいだ、そのことばかり考えていた。

「玉将を使ってもええで。ぼくは紙の王将を使うわ」
 矢島は何もいわないでうなずいた。
 すでに達也から、王将のない理由を聞いているようだ。
 将棋盤に駒を並べても、紙の王将だと緊張感がない。序盤から押されている。ようやく持ち直して将棋に没頭できるようになった。

「昨日のお姉ちゃんが来はったわ」
 ブランコに乗って遊んでいた雪子が教えに来てくれた。
 稔よりも先に、達也が驚きの声を上げた。
 小百合は藤棚の近くまで来て立ち止まった。小さな巾着袋を提げている。達也が知らない振りを装っているのがよくわかる。小百合の視線を強く感じて、稔は将棋を指す手を止めた。
 顔を向けても小百合は視線を外さない。将棋盤に目を戻しても、気になって集中できない。

「タンマや」
「えぇっ、またぼくの勝ちになるやんか」
 矢島は不満の声を上げた。
 稔が小百合のいる場所へ行くと、達也も付いて来た。
「ごめんなさい。大じいさまが浦山くんの王将を持っていたわ」
 達也が稔を押し退けて前に出た。
「やっぱり、おじいが王将泥棒やったんやろ」
 小百合が悔しくてたまらないという顔をした。しかし、達也はかまわず訊く。
「何でおれらを追い返したんや」
「あの時は、まだ知らなかったのよ。私がお稽古に行く前に、お母さまが、大じいさまが手に王将を握っていることに気が付いたの」
「あの暴力男に、いってへんかったんか?」
「大じいさまの恥は、家の恥になるからって、お母さまが……。だから月曜日に、キャラメルと一緒に学校へ持って行こうと思っていたのよ」
「キャラメル?」
 達也が稔に顔を向けた。
「お姉さまがお詫びに、キャラメルを渡したっていってたわ」
「そんなこと、知らんかったわ」
 稔が達也にいい訳をするようにいった。
「キャラメルは、おれが貰ったんや」
 小百合は意味がわからなくて、きょとんとしている。
「ぼくは王将を返してくれたら、何も文句ないわ」
「それが……」といいよどんだ。「あんなに大騒ぎになったから、お母さまが捨ててしまったの。本当にごめんなさい」
 小百合が頭を下げた。
「なんでや?」
 稔の疑問に達也が答える。
「証拠いんめつやな。悪いことをしたのを隠すために燃やすんや」
「えっ! ぼくの王将、燃やされたんか?」
 小百合は首を横に振った。
「燃やしてはないと思う。代わりに、これを受け取って」
 そういって、持っていた巾着袋から木箱を取り出した。
 稔が受け取って蓋を開けると中に将棋の駒が入っている。
「みのる。彫り駒や、えらい値打ち物やで」
「これ、おじいが渡してこいっていうたんか?」
 稔が訊いたが、小百合は答えないで唇を強くかんでいる。
「四年生の風紀委員長に、泥棒のまねをさせることはでけへん」
 稔は蓋をして、木箱を差し出した。
「それに、こんな上等な駒を子どもの遊びに使われへんわ」
 しばらく木箱を見つめていた小百合は、手に取って巾着袋に戻した。

「おれにも謝って欲しいわ」
 達也の言葉を無視して、小百合は帰ろうとした。
「明日、絶対にスカートめくったるからな。覚悟しとけ」
 立ち止まった小百合が、振り返って何かをいった。声は届かないが、太い眉毛を寄せたので「最低ね」といったことがわかる。
 小百合の姿が公園から消えると、達也は見た目にも元気をなくしていた。
「おれ、絶対に嫌われたわ」
「倉井さんのことが好きやったんか?」
「まあな」
「それやったら、なんでからかってばかりしたんや」
「相手にされへんよりええやろ」
 いつになく、達也が神妙な顔つきになっている。 

「二人で話してるのを、邪魔して悪いけどな」
 矢島が声をかけてきた。
「なんや、勝ったんやから、もう帰れ!」
 達也が怒りを矢島に向けた。
「ぼくの勝はタンマばっかりやろ。真剣勝負をして決着をつけたいわ」
 再々挑戦をしてきた。
 稔も望むところだ。ふと思いついて雪子を呼んだ。

「律ちゃんに渡すキャラメルを、ちょっと貸して」
 ビクッとした雪子は、目を大きく見開いた。
「もう、舐めてしもたわ」
 舌を出してペロリと回すと、ブランコへ走って行った。
「達ちゃん、キャラメルあるか」
「最後の一個や」
 達也がポケットから取り出した箱に、銀紙で包まれたキャラメルが残っていた。
 風が通りすぎる。稔は大きく息を吸った。
 駒を並べる。王将の代わりに、今度はキャラメルを置いた。


王将落ち 終わり。
第五章 銀玉鉄砲 に続く。


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