82 『石袋(いしぶくろ)』 初稿 4
文字数 2,305文字
*
教室に入って来た先生は、ストーブの前に立っている賢一を見ても注意しなかった。
「何だか寒いな。後ろの生徒は教室が暖かくなるまで、ジャンバーを着てもいいぞ」
席は身長順なので、稔は後ろから二番目の窓際だった。
木枠の窓がカタカタと鳴って、隙間から冷たい風が入ってくる。さっき、開けた時にしっかりとネジを締めていなかったようだ。
稔は立ち上がってジャンバーを着てから、窓のネジをきつく締めた。
座って手のひらを太股と椅子の間に挟んだ。
「今日は君たちに残念なお知らせがあります」
そう言うと先生は、賢一の横に並んだ。稔たちに尻を見せている賢一の肩を掴んで身体の向きを変えた。
賢一の顔が赤くなっている。ストーブの熱のためか、恥ずかしいからかは分からない。
「岡田くんが転校することになった」
教室にどよめきが起こる。稔も「えっ!」と驚きを口にした。
「岡田くんは、どうしても日直当番をしてから、この学級を去ると言ったそうだ。責任感の強いということだと先生は感心した」
稔は賢一が、家の中では喋ると聞いて驚いた。
「みんな、岡田くんを拍手で見送ってあげなさい」
パラパラと拍手。
「先生、岡田はもう帰ってええんか?」
「今日、岡山へ行くそうだ」
「そんなのずるい!」
「おれ見送るから、帰ってもええやろ」
もう一人の日直は風邪をひいて休みだと知ると、さらに騒ぎが広がった。
「日直がおらんようになったら誰が火の番をするんや」
日直は火を見張っていて、火力が弱くなったら石炭を入れなければいけない。休み時間も外で遊べない。
ストーブの上の金タライに水を足したり、底にたまった灰を取り出したりしないといけない。最後に火の後始末をして、ストーブの回りを掃除してから帰るのだ。
「ぼく、やります」
稔は手を挙げた。
賢一には借りがある。そんな気持ちだった。
「しょうないなぁ、おれもやるわ」
達也も名乗り出た。
真っ赤になっている賢一の右腕がゆっくり動いてセーターの袖で顔を拭った。しかし、真一文字に閉じている口は開かない。
稔は賢一の袖がテカテカになっていないので、新しいセーターだと気付いた。
ストーブは真っ赤に焼けて教室はほどよく暖まってきた。上に置いてある金タライからもうもうと湯気が上がっている。
チャイムが鳴って「ストーブの回りで騒ぐなよ。子どもは風の子、運動場で遊べ」と言って先生が出て行った。
運動場に飛び出すのはストーブに近い席の子どもで、離れた席の子どもはストーブの回りに群がって来る。火力が上がるとストーブに近い席は熱くてたまらないけど、後ろは満足には暖まらないのでいつも寒い。
椅子を持って達也がストーブを取り囲んでいる子どもをかき分けた。
「おれとみのるは日直やから、ストーブの前で火の番をせなあかんねん」
そう言って、尻を突き出して温めている子の横に椅子を置いて座った。
「みのるも来い!」
達也に呼ばれて、ぼんやりと賢一の席を見ていた稔は立ち上がった。
「そこ、通したってんか」
達也の声で、二重に取り囲んでいる子どもたちの間が少し開いた。
稔はそこを通ってストーブの前まで行った。
「みのる、元気ないな。っ村木のことが心配なんか?」
「違うわ。明日から、ケンちゃんが居ないんやなって思ってたんや」
「何や、みのる寂しいんか」
それも違う。給食を食べてもらえた賢一がいなくなって困っているだけだった。
「景気づけに、今年の一発目をやったるわ」
達也が右足を延ばして、上履きの底をストーブにこすりつける。
煙が出るとさっと引いた。ゴムの焼けるにおいが広がる。
「達ちゃんの上履き、穴があいてしまうで」
達也が靴の裏を見せた。黒ずんでいる底のゴムの凹凸が、ほとんどツルツルになっている。
ストーブの火の後始末をしていたので、帰りはみんなよりずいぶん遅くなった。
寺の横の道は霜柱がとけてぬかるんでいた。ゴム靴はすぐに泥だらけになった。
石塔ノ角や大きな石のあちこちに泥がなすりつけられている。
「日直したんは、村木が待ち伏せしてると思ったからやろ」
達也に意外なことを言われて稔はびっくりした。
「そんなこと考えてへんわ」
「石袋をおれにくれたらええねん。おれが村木に渡すわ。みのるは知らん振りしといたらええやん」
「……」
稔はしばらく考えてから答えた。
「やっぱり嫌や」
「分かった。そしたら鉄人28号ゲームをしようか」
「今か?」
「ええから、ええから」
達也が「じゃんけんや」と言って素早くパーを出した。遅れて出したのに稔はグーだった。
「おれが操縦するからな」
ジャンケンで負けた方が三回、言う通りに動かないといけない。
「ちょっと左を向いて五歩進め!」
達也の命令は、ひどくぬかるんでいる所を歩けということだ。
両手を肩まであげた稔は、一歩踏み出すごとに「ギーコ」と言いながらぬかるみの中に入った。
靴が半分、泥の中に沈む。
「戻ってきてええぞ」
達也の前まで行くのに、靴がずいぶん重くなった。
「次は、ポケットから石袋を出せ」
稔は達也の狙いが分かったので、身体の動きを止めた。
「故障したわ」
「そんなに嫌なんか」
「嫌なもんは嫌や」
稔は寺の石段の角に、靴の泥をこすりつけて落とした。
「しょうがないなあ。おれが一緒に居てやるわ」
「そんなこと言わんでも、いつも一緒に遊んでるやん」
稔は冗談で返した。・
「おれは足が速いから大丈夫やけど、みのるが捕まってもよう助けんわ」
「ぼくも死に物狂いで走るから、達ちゃんに負けへんわ」
「そしたら、逃げ足の競争やな」
達也が真剣な顔をして言ったので稔は笑った。
ぐちゃぐちゃにならない道に出ると嬉しくなった。
教室に入って来た先生は、ストーブの前に立っている賢一を見ても注意しなかった。
「何だか寒いな。後ろの生徒は教室が暖かくなるまで、ジャンバーを着てもいいぞ」
席は身長順なので、稔は後ろから二番目の窓際だった。
木枠の窓がカタカタと鳴って、隙間から冷たい風が入ってくる。さっき、開けた時にしっかりとネジを締めていなかったようだ。
稔は立ち上がってジャンバーを着てから、窓のネジをきつく締めた。
座って手のひらを太股と椅子の間に挟んだ。
「今日は君たちに残念なお知らせがあります」
そう言うと先生は、賢一の横に並んだ。稔たちに尻を見せている賢一の肩を掴んで身体の向きを変えた。
賢一の顔が赤くなっている。ストーブの熱のためか、恥ずかしいからかは分からない。
「岡田くんが転校することになった」
教室にどよめきが起こる。稔も「えっ!」と驚きを口にした。
「岡田くんは、どうしても日直当番をしてから、この学級を去ると言ったそうだ。責任感の強いということだと先生は感心した」
稔は賢一が、家の中では喋ると聞いて驚いた。
「みんな、岡田くんを拍手で見送ってあげなさい」
パラパラと拍手。
「先生、岡田はもう帰ってええんか?」
「今日、岡山へ行くそうだ」
「そんなのずるい!」
「おれ見送るから、帰ってもええやろ」
もう一人の日直は風邪をひいて休みだと知ると、さらに騒ぎが広がった。
「日直がおらんようになったら誰が火の番をするんや」
日直は火を見張っていて、火力が弱くなったら石炭を入れなければいけない。休み時間も外で遊べない。
ストーブの上の金タライに水を足したり、底にたまった灰を取り出したりしないといけない。最後に火の後始末をして、ストーブの回りを掃除してから帰るのだ。
「ぼく、やります」
稔は手を挙げた。
賢一には借りがある。そんな気持ちだった。
「しょうないなぁ、おれもやるわ」
達也も名乗り出た。
真っ赤になっている賢一の右腕がゆっくり動いてセーターの袖で顔を拭った。しかし、真一文字に閉じている口は開かない。
稔は賢一の袖がテカテカになっていないので、新しいセーターだと気付いた。
ストーブは真っ赤に焼けて教室はほどよく暖まってきた。上に置いてある金タライからもうもうと湯気が上がっている。
チャイムが鳴って「ストーブの回りで騒ぐなよ。子どもは風の子、運動場で遊べ」と言って先生が出て行った。
運動場に飛び出すのはストーブに近い席の子どもで、離れた席の子どもはストーブの回りに群がって来る。火力が上がるとストーブに近い席は熱くてたまらないけど、後ろは満足には暖まらないのでいつも寒い。
椅子を持って達也がストーブを取り囲んでいる子どもをかき分けた。
「おれとみのるは日直やから、ストーブの前で火の番をせなあかんねん」
そう言って、尻を突き出して温めている子の横に椅子を置いて座った。
「みのるも来い!」
達也に呼ばれて、ぼんやりと賢一の席を見ていた稔は立ち上がった。
「そこ、通したってんか」
達也の声で、二重に取り囲んでいる子どもたちの間が少し開いた。
稔はそこを通ってストーブの前まで行った。
「みのる、元気ないな。っ村木のことが心配なんか?」
「違うわ。明日から、ケンちゃんが居ないんやなって思ってたんや」
「何や、みのる寂しいんか」
それも違う。給食を食べてもらえた賢一がいなくなって困っているだけだった。
「景気づけに、今年の一発目をやったるわ」
達也が右足を延ばして、上履きの底をストーブにこすりつける。
煙が出るとさっと引いた。ゴムの焼けるにおいが広がる。
「達ちゃんの上履き、穴があいてしまうで」
達也が靴の裏を見せた。黒ずんでいる底のゴムの凹凸が、ほとんどツルツルになっている。
ストーブの火の後始末をしていたので、帰りはみんなよりずいぶん遅くなった。
寺の横の道は霜柱がとけてぬかるんでいた。ゴム靴はすぐに泥だらけになった。
石塔ノ角や大きな石のあちこちに泥がなすりつけられている。
「日直したんは、村木が待ち伏せしてると思ったからやろ」
達也に意外なことを言われて稔はびっくりした。
「そんなこと考えてへんわ」
「石袋をおれにくれたらええねん。おれが村木に渡すわ。みのるは知らん振りしといたらええやん」
「……」
稔はしばらく考えてから答えた。
「やっぱり嫌や」
「分かった。そしたら鉄人28号ゲームをしようか」
「今か?」
「ええから、ええから」
達也が「じゃんけんや」と言って素早くパーを出した。遅れて出したのに稔はグーだった。
「おれが操縦するからな」
ジャンケンで負けた方が三回、言う通りに動かないといけない。
「ちょっと左を向いて五歩進め!」
達也の命令は、ひどくぬかるんでいる所を歩けということだ。
両手を肩まであげた稔は、一歩踏み出すごとに「ギーコ」と言いながらぬかるみの中に入った。
靴が半分、泥の中に沈む。
「戻ってきてええぞ」
達也の前まで行くのに、靴がずいぶん重くなった。
「次は、ポケットから石袋を出せ」
稔は達也の狙いが分かったので、身体の動きを止めた。
「故障したわ」
「そんなに嫌なんか」
「嫌なもんは嫌や」
稔は寺の石段の角に、靴の泥をこすりつけて落とした。
「しょうがないなあ。おれが一緒に居てやるわ」
「そんなこと言わんでも、いつも一緒に遊んでるやん」
稔は冗談で返した。・
「おれは足が速いから大丈夫やけど、みのるが捕まってもよう助けんわ」
「ぼくも死に物狂いで走るから、達ちゃんに負けへんわ」
「そしたら、逃げ足の競争やな」
達也が真剣な顔をして言ったので稔は笑った。
ぐちゃぐちゃにならない道に出ると嬉しくなった。