第38話 木枯らし 7 

文字数 3,075文字

 

 前を行く黒い影を追ってガード下に飛び込んだ。
 稔が後ろから裕二の腰にしがみついた。
「おっちゃん、雪子をどうするつもりや」
「うるさい!」
「雪子を律ちゃんみたいに使ったらあかん」
「ごちゃごちゃいうてんと、さっさと帰れ!」
 裕二が、稔を突き飛ばした。壁に当たった稔の身体は、どすんと歩道に落ちて座り込んだ。

 壁に背中を打ち付けた痛みで一瞬、息をすることができない。
 裕二の足が近づいてくる。蹴られると思って、逃げようとしたが動けない。
「みのるくんを、殴らんといて!」
 雪子が稔に抱き付いてきた。
「雪子、どかんかい!」
「嫌や、いやや、いやや」
 雪子が泣き出した。

 頭上を走る電車の轟音が、泣き声をかき消して遠ざかる。
 遅れて走って来た文江も裕二の前に身体を入れた。
 通行人も集まってきたが、裕二は、周りの人の目が気にならないようだ。

 オーバーのポケットから煙草を取り出して口にくわえた。
 その煙草の先がぶるぶる震えている。

 ゆっくりと身体を起こした稔は、雪子を抱え込んだままその様子を見つめた。
 マッチに火をつけるシュッという鋭い音がした。炎に照らされた裕二の顔は、ぞっとするほど不気味で、稔の身体が震え出した。
 火は煙草の先に近づける前に消えた。
 何度か繰り返したが、火はすぐに消える。
 煙草をペッと吐き捨てた裕二は、「クソッ!」とマッチ箱を歩道に叩きつけた。

「雪子を連れて帰れ」
 裕二が低い声でいった。
 とっさに事態が飲み込めない稔は、ただ裕二をにらみつけていた。
「お父ちゃんは、どこ行くんや」
 雪子だけが冷静のようだった。
「用事があるんや」
「帰ってくるんか?」
「……」
 答えないで裕二は背を向けて歩き出した。
「帰ってきてや!」
 一瞬だけ足を止めたが、裕二は振りかえりもしないで行ってしまった。

 大阪駅へ向かって歩いていると、垂れ込めていた雲が途切れ、太陽がほんの少しだけ梅田の街を明るくした。
 稔は手のひらの血が滲んでいるところに唾を落として舐めた。歩道に手をついた時に出来た傷が痛み始めた。
「……お父ちゃん、どうしたんやろ。なんでうちを置いて、一人で行ってしまうんやろ」
「おっちゃんが、ぼくらと一緒に帰れっていわはったんや」
「……」

 ひとり取り残されるのは、いつだって悲しいものだ。
「ぼくが、そばにいるからな」
 稔は雪子の頭を撫ぜた。

 電車に乗った稔は雪子と手を繋いでドアの窓から外を見ていた。
空の雲が薄れてきて、窓ガラスに映る風景に色彩が戻ってきたみたいだが、稔には鉛色にしか見えない。
 すぐ後ろに立っている文江とは気持ちに微妙な間隔が開いて、そっぽを向いていた。
 まだ、ひと言も口をきかないでいる。
「お姉ちゃんのてがみ、なんてかいてあったん?」
 ずっと気になっていたみたいで、雪子がまた訊いてきた。
「雪子を連れて帰って欲しいと書いてあったんや」
「どうしてお姉ちゃんが、そんなことたのんだんやろ」
「さあ、どうしてかな」
 稔はとぼけることしか出来ない。
「お姉ちゃんがたのんだら、みのるくんは何でもするんやな」
 雪子が突然にいいだしたので、稔は戸惑った。
「……そうやな」
「うちも、みのるくんにたのまれたら何でもしてあげるわ」
「それは、嬉しいな……」
「みのるくんは、うちがたのんでもおしえてくれへんのか?」
「そやから、雪子を連れて帰って欲しいと書いてあったんや」
「ちがう。どうしてそんなことをかいたんかをおしえてほしいんや」
「さあ、どうしてやろ」
 国鉄から京阪電車に乗り換えてからも、雪子は同じ質問をしてきたが、稔はとぼけ続けた。
 文江とは電車に乗っているあいだ、ずっと黙ったままだった。

 守口駅に降りると達也と長沢が待っていた。
「おばちゃん、「アリが十匹や」
 達也が文江に雪子を連れて帰ってきたことの感謝を口にした。
「……?」
「アリが十匹で、アリガトウううや」
 それを聞いて固かった文江の表情が和らいだ。
「わたしは何もでけへんかったわ」
「おばちゃんが来てくれへんかったら、電車に乗られへんかったし、やっぱりおばちゃんのおかげや」
「達也ちゃんは、優しい子やね」
 嫌味をいわれたと思った稔は、ジャンパーの左ポケットに手を突っ込んでハンカチを握りつぶした。

「雪子は新しいジャンパーを買ってもらったんやな。似合ってるわ」
 長沢の言葉に雪子は嬉しそうに笑った。
「うちも、きれいになったやろ」
「それ、なんや? きれいなんは洋服やで、雪子は前と一緒や」
 達也がつっこみを入れた。
「きれいになってる。前よりもずうっとや」
 長沢が自転車の電池式ブザーを鳴らした。
「邪魔をすんな。おれは、前と一緒でかわいいというつもりやったんや」

「二人とも、ええ子やわ」
 しみじみという文江の声にむかついて、稔はハンカチを揉みくちゃにした。
 文江が雪子を家に届けてから、市場へ寄って夜ごはんのおかずを買ってくるといって、稔に家のカギを渡した。
「僕も帰るわ」
 長沢は、二人乗りの文江の自転車を追いかけて行った。

「ずうっと、待っててくれたんか?」
 稔は達也と線路沿いの国道を歩き出した。
「そんなアホなことせえへん。公園で遊んで、時々おばちゃんの自転車を見張りに来たんや。カギを掛けてても、パンクさせたり、サドルを盗むヤツもいてるからな」
「おおきに」
「かまへん、かまへん」
「長沢くんも心配してくれたんやな」
「あいつは、雪子のことを心配してるだけや。律ちゃんから雪子に変えよった」
「そうなんか……」
「そんなことより、どんなことがあったか教えてくれ」
 稔はまず京橋で二人を見失ったときに、雪子が探しに来たことを話した。
「雪子も無茶するな。自分が迷子になったらどうするんやろ」
「お母ちゃんもびっくりしてたわ。それから、デパートでも、勝手に走り回って、心配ばかりさせるんやで」
「みのる、なんか楽しそうな顔をしてるな」
「そんなことないわ。ほんまに大変やったんや」
「それから、どうしたんや」

 赤いジャンパーを買ってもらった雪子 が連れていかれた時に、ガード下まで追いかけたことを話した。
「ぼくがお母ちゃんより早く追いついて、雪子を助けたんや」
 文江に止められたことは話せなかった。
「すごいな、みのる。かっこええやん」
 いま、思い出しても身体が震えてくる。

「おばちゃんと仲直りしたんやろ」
 達也が声の調子を変えて訊いて来た。
「……してへん」
「やっぱり、そうか……。なんか変な感じやったもんな」
 納得したように頷いた達也が呟くようにいった。
「仲直りをしてよかったなと思ってたんやで。みのるがシャツをたたんで、小遣いをもらえるようになるし」
「お母ちゃんが、またぼくを怒らすことをしたんや」
「なにがあったんや?」
「話したくないわ」
「それで、みのるはこれからどうするんや。またおばちゃんと口をきかんことにするんか」
「当たり前や」
「なんでや。みのるが雪子のことを心配している何倍も、おばちゃんはみのるのことを心配したはると思うわ」
「そんなこと、達ちゃんがいうのはおかしいで。達ちゃんはおばちゃんに、感謝してへんやろ」
「おれはいつも、まずいおかずを作ってくれてありがとうって感謝して食べてるわ」
「もう、むちゃくちゃでござりますがな」
 稔は花菱アチャコのギャグの物まねをした。
「全然、おもろないわ」
「悪いのはお母ちゃんのほうや」
「みのるがいうんやったら、そうやろうけど……」
 達也が言葉を濁した。
 京阪電車が通り過ぎると、国道に砂ぼこりが巻き上がる。稔は顔にかかる砂ぼこりを手で払いのけた。

木枯らし 8 に続く。

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