第42話 ニセ百円札 1

文字数 3,079文字

 
 昭和三十六年、四月。
 浦山稔は、いつもの朝より少しだけ早起きをした。
 一年生になった金田雪子が、今朝から松月(しょうげつ)公園にきて一緒に学校へ行くのだ。
 昨日の入学式には母親の和子と来ていたのだけれど、六年生になる姉の律子の姿はなかった。   わかっていたことだけど、寂しい感じはぬぐえなかった。

 国道の向こう側を緑色の京阪電車が走り抜ける風を受けながら、稔は路地の入口で植野達也を待っていた。
「みのる。お早うさん」
 後ろから声をかけられた。
 振り返ると、向かいの家の増井が、郵便受けから新聞を取り出していた。
「今日は、仕事お休みなんか?」
 夜勤の工場勤めから帰ってくる増田とは、よく顔を合せるのだが、寝間着姿を見るのは珍しいことだった。
「たまに休んで、お天道(てんとう)さんと仲良くしとかんと、病気になってしまうからな」
まだ、何か話したそうな顔つきをしている。
「これから学校やから、忙しいねん」
「五年生になったお祝いに、せっかくええもんをあげよと思ったのにな」
 右手を後ろに隠している。
 稔は国道の先を見た。達也の姿がまだ見えないので、急いで増井の傍まで走った。

「ええもんて、なんや」
 そう訊いた稔の鼻先に、増井が握った右手を押し付けるようにして開いた。
「握りっ屁(にぎりっぺ)や」
「くさっ、くさっぁ」
 左手の指先で鼻をつまんだ稔は、右手で増井の手を押し返した。
「みのる、何してるんや」
 声に振り向くと、路地の入口に達也の姿があった。
「達っちゃん、増井の兄ちゃんが、ええものくれはったんや」
 稔が呼びかけると、達也も走ってきた。

 増井の後ろの引き戸が少し開く。
「阿保なことせんと、早よ入っといで」
 引き戸の隙間から、増井の母親の小さな声が聞こえた。
「はい、はい、はい」
 くっくっくと笑った増井は、引き戸を開けて中に入っていった。
「ええもんって、何をもろたんや」
「ちょっと待ってや。おすそ分けしたるわ」
 稔は右手を尻に回して、下腹に力を入れた。
「あっ、握りっ屁やな」
 気づいた達也は、、稔の胸を押して走り出した。
 急いであとを追いながら、稔が声をかける。
「オナラは、すぐに出されへんわ。いつでも出せたらええのにな」
「修業して、オナラの名人になったらええわ」

 松月公園の入り口で、雪子が待ち構えていた。
 遠目でも新しいと分かる赤いズッククツを履いている。
 その姿を見て、稔は達也と顔を見合わせた。雪子が学校に居る間は、父親の裕二に梅田へ連れていかれる心配がないからほっとしたのだ。
 稔と達也はふたりで雪子を守ると決めたのだけれど、雪子が公園に姿を現さないときに、家の近くに行って見張ることぐらいしかできないでいた。

 稔が手を上げると雪子が駈け寄ってきた。
 胸の真新しい名札に書いてある『1年1組 かねだゆきこ』は、律子の文字だろう。
「お父ちゃんが、買ってくれはった」
 雪子は訊いてもいないのに嬉しそうに言うと、稔の服の裾を掴んだ。祭りや縁日でバッタもんを売り歩いている裕二が、売れ残りではなくて新品を買い与えたようだ。
 ランドセルは、見覚えのある律子のものだった。
「お姉ちゃんが要らん言うから貰ったわ」
 稔の視線に気づいたのか雪子がいった。
「律ちゃん、そんなこというてるんか……」

 昨日の朝、掲示板に貼ってあるクラス替えの紙で、稔が十二組、四組になった達也は倉井小百合と同じクラスになったと喜んでいた。六年生の中に「金田律子」を探して五組に見つけたのだが、もう学校には行かないみたいだ。

「うち、給食を早く食べて、みのるくんの嫌いなおかずを食べに行ってあげるわ」
 雪子が握った裾を引っ張った。
「そんなこと、せんでもええわ」
 稔が雪子の頭を撫でながらいうと、達也が口を挟んできた。
「みのるも助かるやろ。雪子、面倒をみてやってくれよ」
「うち、大きくなったら、みのるくんのお嫁さんになってあげるんやもん」
 得意気にいう雪子の頭から手を離して、ランドセルに触れる。
「困ったことがあったら、何でもするからな」
 稔は複雑な思いで、雪子の背中のランドセルを見つめた。

 小学校に着くと、稔は雪子の下駄函まで付き添っていった。
 下駄箱に群がる一年生で非常に混雑している中を、雪子がずんずん進んて行く。
 少し離れた場所で見ている稔の前を下級生たちが走り抜ける。
 上履きに履き替えた雪子が、脱いだ新しい靴をランドセルの中に入れた。
「お姉ちゃんが、置いといたらいたずらされてしまうって教えてくれはった」
「……」
 考えてもいなかったことなので、稔はびっくりした。
 なにか、子猫を野良犬の群れの中に送り込むような気がして、動けないでいた。
「みのるくんも、はよ履き替えたほうがええ」
 雪子がランドセルを背負い直しながら言った。
「ぼくが守ったるからな」
 稔がランドセルに手を置くと、雪子はにこりともせずに「わかった」とうなずいた。

 五年生の教室は、四年生の時と違って落ち着いているように感じた。
 担任の東野先生が、女子にでもゲンコツをする恐い先生だからかもしれないが、二階からの眺めにすっかり慣れてしまったこともあるのだろう。
 教科書は今まで使っていたものと違って、挿絵が減って文字が増えている。
 クラスには何人もの顔見知りがいるのだけれど、給食のおかずを食べて欲しいと頼めそうな友だちはいなかった。
 今日は午前中で終わるのでいいのだが、明日からの給食の時間を思うと頭が重くなる。

 一時間目の休み時間になると、稔は雪子が心配になって、一階の一年一組の教室へ向かった。
 廊下には、弟や妹の様子を見に来ているのか、数人の子どもたちがいた。稔と同じ五年生か、上級生みたいだった。
 
 雪子は真ん中の前から三番目の席に座って黒板に目を向けていた。二人掛けの机の隣は空いている。
 稔が様子を見にくることはわかっているはずなのに、周りを見ようともしない。
 ひとりでポツンと座っているので、そばにいって声をかけたくなるのを我慢した。
 肩をたたかれて、振り返ると、華房由紀夫が立っていた。
「金田さんの妹を心配して、様子を見にきたのか?」
「そうやけど……」
 名札に目をやった。
 六年五組、華房と書いてあるのだが、漢字の読み方はわからない。
「……どうして、ここにいてはるんや?」
「きみと同じだよ。ぼくも気になって見に来たんだ」
 隣りにいた大柄の少年が口を出してきた。
「華房(はなふさ)さん、どの子ですか?」
 こっちの六年八組、大宮の名札は読むことができたが、同学年なのに敬語を使っているのが気になった。
 華房が大宮に雪子の座っている場所を説明した。
 数人の一年生が、こちらを見て何かをいっている。
 頑なに前を向いたままの雪子に、稔は決意のようなものを感じた。
「彼が金田さんの友人の、浦山稔くんだよ」
 華房が大宮に紹介するようにいった。
 自分の名前を憶えていることに驚いた。
「きみのことは、華房さんから聞いている」
 大宮が値踏をするような目を向けている。
「どうして、華房さんがゆきこのことを心配しはるんや?」
「金田さんに、頼まれているんだ」
「嘘や。律ちゃん、外に出れへんのに、頼むことでけへんわ」
「手紙で文通しているんだ」
「文通……」
「きみは金田さんのことを、何も知らないんだな」
 そういっうと華房が立ち去った。
 大宮が少し後ろを従うように付いていく。
 稔はなにがなんだかわからなくて、追いかけて訊こうとしたが、二時間目の始まるチャイムが鳴り始めたので、急いで会談を駆け上がった。


 ニセ百円札 2 に続く。
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