第110話 ユーカリの樹 18

文字数 1,052文字


「ただいま」
 稔が家に帰ると母親の文江の姿はなくて、父親の寛之だけがいつものように文机の前で仏像を彫っていた。
 稔はすぐに奥に行って、画板を取り出した。
 交換会の会場を出て、家に帰る間、何か狂暴な思いが襲ってくるのだった。
 気持ちを鎮めるために、早くユーカリの樹の絵の続きを描きたいと考えていたのだ。

 嵐の中で立っているユーカリの樹に色を重ねていく。
 しばらく夢中になって、手を動かしていた。
「みのる。帰ってたんか」
 文江の声で顔を上げた。
「ちょっと、照代さんとこで話し込んでいたんや」
 ミシンの内職に追われなくなった文江は、毎日のように照代と喋っている。
 稔が黙って絵の続きを描いていると、
「お父ちゃんはノミを持って稔は筆で、お互い精が出るもんやな」
 半ば呆れたようにいった。
 
 もうすぐ完成するところで手を止めた。
 うまく描いていると思うのだけれど、なんだか気に入らないのだ。
 裏庭の無花果の木に目をやった。
 学校のユーカリの樹と大きさは比べ物にならないが、しっかりと立っている。
 台風に襲われている場面を想像してみる。
 右や左に大きく揺れて、実も葉も落ちるだろう。
 嵐の中で、しなやかに動く無花果の木が鮮明に浮かんで来た。

 華房がいい絵だと褒めたことをが原因なのかもしれないと稔は思った。
 絵を描き直すことにした。
 もう一度、学校へ行こうかとも思ったが、ごつごつした樹皮が剥がれて滑らになっていることや低い枝についてる葉と、高い枝の葉の形が違っていることも覚えている。
 雪子がシロアリ採りをして遊んでいたことも。
 稔の頭に新たなイメージが湧き上がってきた。
 それを新しい画用紙に描き始めた。

「みのる。何を描いてるんや!」
 頭上から文江の叫ぶような声が落ちて来た。
 稔は思わず身体で絵を隠した。
「なんで隠すんや」
 文江が稔を押し退けて画板を手に取った。
 画用紙には、台風で倒れているユーカリの樹が描いてある。
「お父ちゃん、みのるがこんな絵を描いてるわ」
 寛之に絵を差し出した。
 前は、稔の絵を見て感情が出ているのがいいといった寛之は、何もいわない。
 稔には同じ意見なのか、それとも関心がないのか判断がつかない。
「こんな絵を学校へ持っていったら、東野先生に怒られるで」
「そんなこと、わかってるわ」
 稔は文江の手から、画板を奪い返した。
「お母ちゃんは、ミシンをやらへんようになってから、ぼくに文句ばっかりいってるわ」
 そういい残して稔は、画板を持ったまま家を飛び出した。


 ユーカリの樹 19 に続く。
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