第40話 木枯らし 9 

文字数 3,929文字

 稔は緊張して、晩ごはんを食べていた。
 いつも文江がその日にあったことを、食べながら寛之に話すのだ。しかし、梅田へ行ったことを喋らなかった。
 寛之もおかずが、市場で買ってきたコロッケと惣菜を並べただけだと分かっているはずなのに、何も訊かないで食べていた。

 寝床に入った稔は、自分が寝た後できっと話すだろうと思って、ずうっと起きていようと目を開けていた。
 文江がミシンをかける音と、寛之の木槌でノミを打つ音が、心地のいいリズムとなって眠気を誘う。うとうとすると抱いている豆炭アンカの布カバーの中に指を入れて、金属の熱さで眠りを防いだ。

 はっと気がつくと、ミシンの音も木槌の音も止まっていた。
  隣の部屋で喋る小さな声が聴こえる。
 稔はフトンを身体に巻いて、ふすまの近くまで転がった。

「もう恐くなって、あれ以上のことはでけへんかったわ」
 文江の声が耳に届く。
「そのうち、みのるにも分かる時がくると思う」
 落ち着いた寛之の声に稔は驚いた。きっと怒り出すと思っていたのだ。
 緊張の糸がほぐれると、睡魔がすぐにやってきた。

 翌日、稔は朝早くに家を出た。
 国道のイチョウ並木の葉が落ちつくしている。風がさらっていった落ち葉が、路地のあちこちの隅に吹き溜まっていた。
 風が吹くと、乾いた音を立てて落ち葉が転がっていく。
  稔は達也の家へ行った。
「ねこバアに相談があるから、先にいってるわ」
「わかった。おれもすぐにいくわ」
「達ちゃんは、ゆっくりでええ」
 稔は全速力で公園まで走った。

 墓地をコの字に囲んでいる公園に近づくと、風の中に焚き火の煙の臭いがした。
 ブランコの横の小さな焚き火の前には、思っていた通りねこバアしかいなかった。
 いつもの様に、みかん箱に座布団を敷いて座っている。
 墓地の掃除をしているねこバアは、なにかと子どもたちの面倒を見てくれていて、毎朝焚き火を用意して迎えてくれるのだ。 
 数匹の猫がまとわり付いているのでねこバアと呼んでいるのだが、本当の名前と住んでいる家は誰も知らない。
「こんなに早くにどうしたんや? クソ真面目な顔をして」
 ねこバアが膝の上の白い猫を撫でながら、声をかけてきた。
 瘠せている稔のことを、いつも骨皮筋衛門(ほねかわすじえもん)といって太った身体を揺らして笑うのだが、今朝はからかわなかった。

「教えてもらいたいことがあるんや」
 ねこバアの横に立つと、足元にいた黒い猫が低い声で鳴いた。
「なんでも聞いたるから、いうてみたらええ」
 ねこバアが横に積んでいる枯れ枝を焚き火に足した。木の弾ける音がして、炎が黄色く燃え上がった。
 稔がジャンパーのポケットから石を取り出して、焚き火に放り込むと火の粉が飛んで宙に舞った。
 かじかんでいる手をかざして、昨日の出来事を話し始めた。
 雪子が裕二に梅田に連れて行かれて、稔が文江と一緒に追いかけて行ったこと。デパートで雪子が赤いジャンパーを買ってもらったこと、そして、どこかへ行きかけた雪子を連れて帰ったこと。頭の中で何度も思い返していたので、すらすらと説明ができた。

「雪子のお父はんに、心変わりさせたんは、あんたとお母ちゃんの手柄や。それでええんと違うんか」
「でも……、お母ちゃんが最後に、ぼくを裏切ったんや!」
 口から出た声が耳に入ると、稔はこの言葉の意味に気がついた。
「裏切られたことに怒ってるんやな」
「そうや。ぜったいに許さへん」
「もうちょっと詳しく、その時のことを教えてんか」
「お母ちゃんがぼくを抱いて止めたから、大嫌いやっていうて抜け出したわ」
 それから、雪子を助けようとして、裕二に突き飛ばされた。でも、最後は雪子を連れ戻すことができた。

 話を聞き終わったねこバアは、膝の白い猫を持ち上げて腕に抱いた。
「だれでも大事なことが二つあるんや」
「……?」
 稔は、何をいい出すのかと戸惑ってねこバアの顔を見た。
「一つは身体や。だから、ちゃんと生き続けるように守るには、家とか食べものとか、いろいろ手に入れんとあかん。仕事をしてお金を稼ぐのに、身体を使うんや」
 話の内容がわかったので興味を持ってきた。
「もう一つはなんや?」
「それは、気持ちや。みんな気持ちを持ってるやろ。身体を守ろうとするのと、気持ちを守ろうとするのは全然別のものなんや」
「……」

「あんたの身体を守ろうとしたお母ちゃんの気持ちを、あんたが傷つけたんやな」
「えっ、なんでそうなるんや」
「あんたはお母ちゃんに、あんたの身体よりも気持ちのほうを守って欲しかったと思ってるんやろ」
「……そうなんかな?」
「でも、身体が死ぬと、もうあかん。気持ちも一緒に消えてしまいよる。身体さえ生きていればええんや。気持ちなんかころころ変わるもんやさかいな」
「……」
「いまはお母ちゃんのことを怒ってるけど、大好きな時もあったやろ」
「そうやけど……」
「まあええ、雪子のお父ちゃんに突き飛ばされて、それからどうなったんや」
 あの時は、雪子を助けさえすればそれでいいと思ったのだ。しかし、よく考えてみると、雪子が防いでくれていなかったら、裕二に蹴られていたはずだ。殺気のようなものを感じて動けなかった。

「突き飛ばされたあんたの身体を、雪子が守ったわけやな」
「雪子が……、ぼくを助けてくれた……?」
「助けに行ったのに、助けられたなんて、摩訶不思議な話やな」
 ねこバアは太った身体を揺らせて、ふぇふぇふぇと笑った。
 稔は、理解することが出来ない。
「一番損をしたのは、あんたのお母ちゃんやな。わざわざ一緒に行って、大嫌いなんていわれたら、立つ瀬があらへん」
「……」

「一番得をしたのは、あんたや。幸せ者やで、二人も身体を守ってくれる人がいるんやから」
「なんで、そうなるんや」
「そのことに気が付かへんあんたは、大アホや」
「……」
 ねこバアは静かな口調で、さらに続けた。
「あんな、お国の為やと戦争に狩りだされた人は、みんな身体と気持ちがバラバラになって帰ってきてはるんやで」
「バラバラって、どうしてや」
「大勢の兵隊さんが死んだのに、自分だけが生き延びて悪いと思う気持ちが先にあるんや」
「……」
「それから、生きてて嬉しいことがあって楽しい気持ちが出てくると、どっちがほんまの気持ちかわからへんようになるんや」
 改まった声になって、ネコバアが続けた。
「兵隊さんだけやない。わても、身近な人を何人も亡くしてる。大阪大空襲いうてな、アメリカの飛行機が何回も爆弾を落としたんや。あんたが、昨日通った京橋駅にも爆弾を落とされたんやで」
「そんなん、全然わかれへんかったわ」
「土をかぶせて、新しい建物を造ったら誰も気づかんようになるからな」

 1945年8月14日に約150機のB29が大阪への空襲をおこなった。
 アメリカ軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700個の1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄京橋駅(大阪市都島区東野田町から城東区新喜多の周辺)で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「京橋駅空襲」とも呼ばれている。
 京橋駅周辺には13時頃、1トン爆弾4発が落下した。この空襲での犠牲者は、身元の判明している者だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500から600名以上いる(遺体の損傷が激しく正確な犠牲者数は不明)とされている。『ウィキペディア・大阪大空襲』より抜粋。

 ねこバアが鼻をすすりながら、目の前の墓地に目をやった。
「わての子どもも焼き殺されてしもてな。ここのお墓に眠ったはるんや」
 搾り出すように言葉を口にしたねこバアが、枯れ枝を焚き火に投げ入れた。
 火が次々と枯れた枝に燃え移り、パチパチと音を立ててかたちを縮めていく。燃え上がった炎が青や黄色に色合いを変えた。
「兵隊さんもわてらも、なんとか辻褄をあわそうとして生きてるんや。なかには、生きてるのに、気持ちが死んでるような人もいはるけどな」
 稔の頭には、すぐに寛之の背中が浮かんだ。毎晩、毎晩、木槌でノミを叩いて仏像を彫っている……。
「雪子のお父ちゃんは、そんな人になってしまったのかもしれへんな」
 ねこバアが裕二のことをいったので驚いた。寛之と同じだとは思いたくないのだ。

「ええ石があったわ」
 達也の声が、後ろから聞こえた。
「枝もいっぱい拾ってきたで」
 達也が石と小枝を焚き火へ投げ込んだ。
「やっぱり、あんたは気が利くな」
「サンキューベリー、マッチ一本火事の元」
「全然おもしろないわ」
 すぐに稔がいった。
 聞き飽きているので、ねこバアも笑わない。

 突然、ねこバアが「わあっ!」と大声を出した。
 驚いた稔と達也は、とっさにねこバアから離れた。足元の黒い猫も逃げて行ったが、膝の上の白い猫は顔を上げただけだった。
「びっくりすると身体が先に逃げるやろ。あんたのお母ちゃんは、びっくりしたときに、あんたを守りはったんや」
「なんのことや?」
 達也が訊くので、ねこバアに話したことをいった。
「みのるは、あぶない男なんや。三年生のときに、五年生の村木をグーで殴ったんや」
 達也がねこバアにいいつける。
「無鉄砲って言葉を知ってるか? 鉄砲も持たんと敵に攻め込んでいくことや」
「みのるは無鉄砲と違う。鉄砲の弾や。飛び出したらブレーキがきかへん」
「あんたは、気の利いたことをいうな」
「二人でほくのことを決めつけるのは、やめて欲しいわ」

 ランドセルを背負った子どもたちが、次々と集まってきて、焚き火に石を放り込む。その度に火の粉が飛び散った。
 班長になった六年生の雅史も弟の博史と一緒に姿を見せた。
 焚き火を囲んだ子どもたちが、木の枝を突っ込んでは火の粉の舞い上がる高さを競う遊びを始めた。

木枯らし 10 に続く。

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