第6話 いちじくの実 6

文字数 8,191文字


 駅に到着すると、雅史が駅長と話をつけた。
 事情を説明して電話を使わせてもらい、家にかけたのだ。母親に話して、降りる駅まで電車賃を持って迎えに来てもらうことになった。
 稔は雅史の家が、電話を持っていたことに驚いた。
「中学校の先生をしているから、文部省がただで配るんや」
「ほんまか?」
「生徒になんかあったら、すぐに連絡せなあかんやろ。電報やったら埒があかんからな」
 達也が自信たっぷりにいうので、稔はそうなのかと納得した。

 ホームに立って三角山を見上げる。山頂の上に入道雲が出ていた。
 電車を待つあいだ、子どもだけで乗ると思うだけでどきどきする。しかも、薄汚れた格好をしている。ここまで来るあいだに汗を吸ったランニングシャツは、乾いた部分に白く塩が吹いていた。
 電車に乗るときは、きれいな格好をしていないといけない。稔もよそ行きの服を着て靴下をはいて、よそ行きのクツをはくのだ。
 ランニングシャツの裾を、半ズボンの中に入れた。
 電車が到着して稔たちがぞろぞろと乗り込むと、全員の視線が集まった。ドアの前に固まって立った。
 車内の乗客は半分ほどで、座席にゆったりと座っている。立っているのは、家族連れの子どもだけぐらいだった。
 座席が空いているときでも、子どもは立っているのが当たり前なのだ。
 ドアが閉まると、電車は大きく振動したあと、ゆっくりと動き出した。開いている窓から気持ちのいい風が入ってくる。

 向かい側の座席の太った男が、何かいいたそうな顔でこっちを見ている。目を合せないように稔は、ドアの窓に身体を押し付けて大きく息を吐いた。
 窓の外に遊んだ川が見える。達也も同じようにして外を眺めていた。
 律子だけがドアにもたれて、体重をあずけている。空いている席に座るようにいってもきかないのだ。
「もうしばらくの我慢だからな」
 雅史が律子の腕を掴んで支えている。
「あなた、ずいぶん疲れているみたいね。無理しないで、座ったほうがいいわ」
 すぐ近くから女の人の声が届いた。
 稔は思わず顔を向けた。驚いたのは、東京の言葉遣いだったからだ。
 座席の端に座っている女の人の柔らかい目と合った。
「子どもは元気だし、足腰を強くするために立っているものだ。なんていう社会の常識なんか気にしなくていいのよ」
 太い眉とエラの張った顎の顔をしている。
 稔が「座ったほうが楽やで」と声をかけた。
「汚い恰好したガキだけで電車に乗るなんて、十年早いぞ!」
 大声で文句をいってきたのは、向かい側の太った男だ。
「確かに、十年経ったら大人になりますものね」
 女の人は太った男に視線を移した。
「ネエチャンにいうてへんわ。関係ないもんは黙っとけ!」
「わたし、ずっとあなたのことが気になっていたんです」
「えっ! おれのこと……」
「足や顔のむくみが、気になるんです」
「人のことは、ほっとけ」
「じゃあ、あなたもこの子たちのことを構わないでください」
「うるさい!」
「夜中に寝苦しくなって目が覚めることはないですか?」
「……ないよ」
「わたしは内科の医者ですけど, 糖尿病、高血圧とか、不整脈とかいわれたことはないですか?」
「……」
 大きく広げていた股が、だんだんと閉じてきた。
「階段を上るのがつらくなったり、息切れが激しくなったりしていませんか?」
「ないけど……、いや、あったかな」
「思い当たる症状があるんですね」
「症状だなんておおげさな」
「心臓が悪いために起きているんです。だんだん悪くなって、生命を縮めますよ」
「生命が……」
「心不全は、急死につながる危険性もあるので、すぐにでも病院に行って、心不全の検査をすることを勧めます」
 太った男は、居づらくなったみたいで隣の車両に消えてしまった。

「脅かし過ぎたかな」
 すこし笑って律子に、「我慢しないで座ればいいわ」といった。笑うと頬に深い笑窪ができて、優しい顔になった。
 律子はためらいがちに、女の人の横に座った。稔たちも二人の前へ移動した。
「脈拍を計らしてね」
 女の人は手をのばして、律子の額を触ってから手首を取った。
「今日はしっかりと休むことね。明日も体調が悪かったら病院に行くのよ」
 そういってから、稔たちだけに聞こえるような小さな声で続けた。
「私、本当は看護婦なのよ。あの人に医者だと嘘をいったのは、見得を張ったんじゃなくて、ああいう人は権威に弱いでしょ」
「けんい?」達也が訊いた。
「偉い人ってことだよ。担任の先生より、校長先生に怒られるほうが嫌やろ」
 雅史がいってから女の人に顔を向けた。
「嘘も方便ですね」
「あら、そんな言葉知ってるの」
「雅やんは、頭がええねん。学校の先生になるんやもん」
 達也が得意気な顔をした。
「まあ、そうなの」
「おれは、バスの運転手や。それで、みのるは、絵描きさん。芸術家や」
 女の人はうなずいてから、律子に顔を向けた。
「あなたは?」
「……」
「律ちゃんはアナウンサーや。ラジオかテレビの」黙っている律子に代わって達也が答えた。
「あら、いいわね。将来のこと、しっかり考えているのね」

 稔は窓に目を移した。
 将来のことを考えているのは雅やんと達ちゃんだ。風景のなかに見慣れている建物を探す。
 達也が三角山に途中まで行った話を始めた。
しばらく電車に揺られていると景色が見慣れた町並みに戻ってきた。松月公園が見えたけれど、あっという間に通り過ぎた。
「夏休み最後の日に冒険したのね」
 話を聴き終えた女の人がいった。

 車内のアナウンスが降りる駅の名前を告げる。
 もうすぐ駅に着く。そう思うと、稔は足が地に着かないで宙を浮きながら揺られているようだった。
「看護婦さんに、足の悪い人がいはりますか?」
 律子が突然に訊いた。
「あらっ……、そうねえ」
 女の人が、言葉をさがしているのか、しばらく黙っていた。「あなたと同じように、足が不自由な先輩がいるかなんて考えなくてもいいのよ。もし、誰もいなかったら目指さないってことになりかねないでしょ」
 女の人は、律子の手を握って続けた。「あなたは、足が不自由だから運動選手にはなれないわ。でも、それ以外の仕事をすることは出来ると思うのよ」
津子は泣きだしそうな顔になっている。それを見て稔は、腹が立ってきた。
 よけいなことをいわないで、「頑張れば、看護婦さんになれる」といってくれたらいいのに……。
「ごめんなさいね。あなたの事情を何もしらないで、勝手なことをいって」
 首を激しく横に振る律子の目に涙が溜まっている。
「律ちゃん、意地悪をいわれたぐらいで泣いたらあかん。もう、駅に着くから我慢しいや」
 稔の背中を雅史が叩いた。
「みのるは勘違いしてるわ。看護婦さんは、ええこといってくれはったんや」

 踏み切りの音が鳴る。ブレーキの音と共に電車の床が大きく震えて停車した。ドアが開いたので、ばたばたと急いで降りた。
 律子がホームを出て行く電車に深々とお辞儀をしている。
 顔を上げると、涙がぽろぽろこぼれ落ちた。
 稔は遠くの空を見た。入道雲は、もう空にはなかった。

 ホームに立つと、帰りついた安心感があった。半日かけて歩いた距離なのに、ほんの数分で駅に着いてしまった。
 階段の向こうにある改札口に文江の顔を見つけた。達也の姉の美也子と雅史の母親と一緒に睨みつけている。雪子だけが大きく手を振っていた。
 改札口に向かう足取りは重かった。
 稔と達也は律子を両側から支えて、雅史を先頭にして歩いた。
 改札口に立っている駅員に頭を下げて外に出た。

「このお金で切符を買って、改札の駅員さんに渡しなさい」
 雅史が母親からお金を受け取った。
 前もって子どもに切符を買わすことを決めていたようだ。稔も文江から二十円を渡された。達也は美也子から受け取ったお金を両手で包んで上下に振って音を鳴らした。
 雪子が律子の手を持って、握っていた小さな手を広げた。二十円を手のひらに載せたのだろう。
「お父ちゃんがくれはったんか?」
 律子の声が一瞬高くなった。
 雪子が首を横に振り、文江の顔を見上げた。
 律子は目を閉じて、文江に頭を下げた。
 雅史に続いて稔も頭を下げると、慌てたように達也も真似をした。
「わあ、みんなおじぎ草みたいやわ」
 雪子の声だけが明るく響いた。
 窓口で切符を買うときも、改札で渡すときも駅員さんに「ありがとうございました」と大きな声でいった。

「お先に、失礼します」
 雅史の母親が、軽く会釈をすると忙しそうに小走りで帰っていった。その後ろを雅史が追う。
 律子は文江が自転車の後ろに載せて先に帰ったので、稔が雪子の手を引いて帰ることになった。
 前を歩く美也子が、横の達也の頭を平手で叩いた。
 雪子が驚いて、稔の手をぎゅっと握った。
「痛いなあ」
 慣れているみたいで、達也の声はいつもと同じだった。
「叩かれたんやから、当たり前や」
「姉ちゃんが叩くことないやろ」
「心配した分や」
「それは、おおきに」
「あんたを心配して損したわ。叩いた手も痛いし大損や」
 美也子が叩いた手にふうっと息を吹き付けた。
「うちのお姉ちゃんより恐いわ」
 小さな声でいって、雪子が稔を見上げた。
「律ちゃん、大丈夫かな。おじちゃんに怒られるやろな」
「お父ちゃんが家に入れへんて怒ってたわ」
「心配やな」
「困るのは、お父ちゃんやからだいじょうぶ」
「そうなんか」
「お父ちゃんの世話してるのは、お姉ちゃんやもん」
「おばちゃんは、世話してへんのか」
「お母ちゃんは、仕事でも家でもお酒を飲んだはる」
「そうなんか」
 稔にはどうしようも出来ない。出来ることは、ただ心配することだけだ。

 玄関わきに自転車があった。
 半分開いている玄関からミシンの音は聴こえてこない。文江がミシンかけをしていないので、稔は怒られることを覚悟した。
 ミシンの横から三畳間を通って、文江が待ち受けているちゃぶ台の前に座った。ちゃぶ台に置いてある皿には、おにぎりが一個とちりめんじゃこが盛ってある。
「心配かけて、ごめんな」
 正座をして謝った。
「お昼過ぎに美也子ちゃんが達也ちゃんを探しにきたけど、ふたり一緒やとわかったから、お腹が減ったら帰ってくるやろと笑ってたんや」
 んなに心配していなかったといってから続けた。
「雅史ちゃんのお母さんが訪ねてきてくれて、遠くへ行って歩かれへんから電車で帰ってくることを教えてくれはったわ」
 それから、達也の母親が働いているメリヤス工場と律子の家を訪ねて、電車で帰ってくることを知らせたといった。
 稔は律子の父親が、どんなことをいったのかを聞きたかったけど何もいえない。
「お菓子をもらいに葬式に行ったんやろ。それがどうして、あんな遠くまで行ったんや」
「夏休みも最後やし、みんなで冒険しようと思って……」
「みのるたちやったら、水筒と握り飯を持って行くはずや。律子ちゃんが、行きたいっていうたんやな」
「ぼくも行きたかったんや」
「お母ちゃんは、行ったらあかんなんて思ってないわ。ちゃんと用意してから行けばええんや」
「これからそうするから、お父ちゃんに黙っておいて欲しいねん」
「そんなことはでけへん、みのるのことはお父ちゃんにも、知っといてもらわんとあかんさかいな」
「……」

「元気が残ってるんなら、おにぎりを食べたらええけど、後片付けはみのるがするんやで」
 文江が立ち上がってミシンのほうへ向かったので、稔は背中に声をかけた。
「律ちゃん、電車で泣きはったんや」
 振り向いた文江が戻ってきて座り直した。
「どうしてや?」
 稔は車内であったことを最初から話した。太った大人に怒鳴られたこと。医者だといって助けてくれた女の人が、本当は看護婦さんで、律子が足の悪い看護婦さんがいるかを尋ねた。
「その答えを聞いて、泣き張ったんや」
「前置きはええから、はやくいい」
「足が悪い人がいてるかを、教えてくれへんのや。それやのに、運動選手になれへんていうし、ほかの仕事を探せっていうんや。ひどいやろ」
「看護婦さんになられへんって、いいはったか?」
「それは……、いってはらへん」
「ほかの仕事を探せといいはったんやろ」
 稔は律子が泣き出しそうだったので、それが気になってあまり聞いていなかった。
「ようわからへんけど、運動選手は無理やけど、ほかの仕事は出来るっていわはったんとちがうんか?」
「律ちゃんのこと、何も知らんのに、ひどいやろ」
「律子ちゃんを知ってる人は、腫れ物に触るように気を使って、何もいわへんのや。そやから、出来ることとでけへんことがはっきりして、それが嬉しくて、律子ちゃんは泣いたんやろな」
「……」
「すっきりしたわ」
「お母ちゃんはすっきりしたかもしれんけど、ぼくはなんで律ちゃんが泣いたのか、わかれへん」
「こういうことは算数と違うから、説明でけへん。みのるもいつか、わかるときがくるやろ」
 馬鹿にされたような気がして稔は、もう一人前だとわかってもらおうと思った。
「律ちゃんの電車賃、ぼくが返すわ」
「お金は、律子ちゃんから返してもらう。そういう約束もしたから、みのるは気にせえへんでええ」
「そんなん、律ちゃんがかわいそうや。お金を持ってへんのに返されへんわ。それやったら、あげたらええやん」
「みのる。考え違いをしたらあかん。かわいそうなんはあんたの心根や」
「わかれへんわ」
「お金がない人にも意地があるんやで、意地を台無しにするようなことをしたらあかんのや」
「困ってる人がいたら、助けてあげなさいと先生に習ったわ」
「お金をあげることと、手助けをすることは別のことや」
「お母ちゃんも、昨夜(ゆうべ)お米をあげたやん。ぼくがお金をあげるのと一緒のことやろ」
「もう疲れたから、話はおしまいにするわ。みのるの気が済むんなら、律子ちゃんにお金をあげるといえばええ。でも、嫌われてしまうで」
 そういい捨てて文江はミシンがけに戻った。

 工場勤めから帰ってきた寛之は、いつものように行水をして夕飯を食べ始めた。
 文江が今日の出来事をあれこれと喋ると、寛之は時々「ほう」とか「ああ」とか「そうか」と短い単語で応じた。ちゃぶ台に寛之と向かい合って坐っている稔は、もうすぐ食べ終わるのでそわそわしてしょうがない。寛之が彫刻を始める前の煙草を吸う五分ぐらいが、稔のことを話す時間となっていた。

 夕食を済ませると文江が、丸板で蓋をした火鉢の上から濃紺のピース缶を二個と灰皿を取って、一個を寛之の前に置いた。
 寛之がピース缶を開けて煙草を抜き出すと、文江がすかさず徳用マッチで火をつける。その火が消えないあいだに、文江も煙管に煙草を差し入れて吸い始めた。
 寛之が息を吸いこみ、煙草の先がチリチリと赤く燃える。
 稔は文江がいよいよ、黙って三角山へ行ったことを話すのだと身構えた。
 文江は稔にちらっと視線を送ってから話を始めた。
 隣町の葬式へいった足で三角山に行こうとして、途中で疲れたので電車に乗って帰って来た。   
 一緒に行った友だちは、達也と中学校の先生の子どもといっただけで、律子の名前は出さなかった。
 馬のウンコを踏んだことは、ズッククツがきれいなことを追及されて喋ってしまったのだけれど、文江は寛之に話さなかった。文江にケンカをしたことと川で泳いだことは、秘密にしている。あの長い、長い、長い時間を、一分もかからないで説明をした。
「みのる」
 寛之が呼びかけたので、稔は目を上げて全身を固くした。
「子どもたちだけで電車に乗って帰ってきたんか?」
 稔がうなづくと、「それは、ええ経験をしたな」と珍しく寛之が笑顔を見せた。
「みのるもけっこう元気があるんだな」
 ふうっと煙草の煙を吐いた。
 元気とは違う。「夏休みにどこにも連れていってくれへんかったからや」といい返すことはできない。 
 稔は寛之に怒られなかったことに、ほっと胸を撫でおろした。

 その夜、蚊帳の中に入って蒲団に寝転んでも、律子のことが心配でなかなか眠ることができなかった。
 部屋には、夏の夜の闇が重くたれこめている。稔の身体は汗に濡れていた。つま先から疲れが這いあがってくる。いろんなことが頭の中で、ぐるぐると回っているのだけれど、だんだんとスピードが遅くなって、律子の背中に翼が生えたところで意識が遠のいた。

 翌日の二学期が始まる朝、稔は家を出て路地の角で達也を待った。
 朝日を浴びて緑が輝いている三角山は昨日とは違う山のように思える。
 足音に振り向くと、達也がいつもの笑顔を見せた。
「おじちゃんに怒られたか?」
「怒られへんかったわ。誉めてくれはった」
「みのるのとこは、おばちゃんも優しいし、羨ましいわ」
「ぼくとこ浦山やからウラヤマしいって、たかし兄ちゃんにもよくいわれるんや」
「ダジャレやない。ほんまに思ってるんや」
「達ちゃんとこは、どうやった」
「母ちゃんに、人騒がせなことせんといて! 怒鳴られて頭叩かれたけど、父ちゃんは、『いつでも自動車で迎えに行ったる』っていってくれはったわ」
「ええお父ちゃんやな」
「ぼくに似て、調子のいいこといってるだけや」
「そんなこといったら罰があたるで」
「家に電話がないし、どこにいるか教えられへんやろ」
「そうやな。達ちゃんが手品で伝書バトを出すしかないな」
 稔は達也の顔に笑いかけた。

 松月公園に着くと、ねこバアに声をかけてから、律子の姿を探したが見当たらなかった。
 長沢が完全に無視をしているのは仕方がない。でも、雅史がなんだかよそよそしい。挨拶をしても、いつもと違って力のない声が返ってきた。
 弟の博史がこそこそと近寄って来た。
「お兄ちゃんな。昨夜(ゆうべ)何も喋らへんから、お父ちゃんにものすごく怒られて泣きはったんやで」
 それだけいうと、すぐに離れていった。
「泣いたことが恥ずかしくて、知らん顔をしてるんかな」
 達也が半分笑いながらいった。
「そんなこといったらあかん。ぼくらのために怒られたんやで」
「おれらは関係ないやろ。律ちゃんがいい出したんやから」
「それは違う。ぼくが行きたかったんや。達ちゃんも前から行きたかったと、怒ったやんか」
「おれは、みのるが行くいうたから付き合ったんや」達也が言い張る。
「そしたら、ぼくが電車に飛び込むっていうたら、達ちゃんも付き合って飛び込むんか」
「もちろんや。確かめるために、電車に飛び込んでみたらええ」
「達ちゃんには負けるわ」
「あんたら、朝から漫才やってるんか」
 割って入ってきたねこバアが、ふぇふぇふぇと笑う。
「ねこバアは、冷やしあめ売りのおじいを知ってるか?」達也が訊いた。
「ああ、知ってる。顔だけやけどな」
「昨日、ずっと遠いところで会ったんやけど、おれらのこと知ってはってん」
「商売しながら、一人ひとり見守ったはるんやろ」
「ねこバアも見守ってくれてるんか」
「このあたりの子どもだけやけどな」
「商売やないのに、どうしてや」
「それは楽しいからや。あんたらも夏休み前の顔より、ええ顔になってるし。見るのが嬉しいんや」
 ねこバアの足元で黒い猫が鳴いた。

 雪子が来て、律子は休むといった。
「律ちゃん、お父ちゃんに怒られはったか?」
「ううん、お父ちゃん、よう帰って来たいうて喜んではった」
 休むのも昨日の疲れではなくて、家の手伝いをするためだということだ。
 稔の気持ちは、安心と心配のあいだを行ったり来たりする。
「お姉ちゃん、お父ちゃんに看護婦さんになるいわはってん」
「えっ、看護婦……」
 稔は律子がなりたい夢ができたことで、安心の気持ちが多くなった。
「昨日、電車で会った看護婦さん。足が悪くても、なれるっていいはったかな?」
 達也が横から口を出した。
「そんなん、絶対なれるに決まってる」
 稔はむきになって強くいった。
「みのるは勝手やな。自分のことは、絶対絵描きになられへんいうてるのに、律ちゃんは絶対なれるていってるんやで」
 稔は言葉に詰まった。

「あんたら、さっき漫才してたのに、今はケンカしてるのか。仲のいいことやな」
 また、ふぇふぇふぇとねこバアが笑う。
 六年生の班長が「出発するぞ」と大きな声でいった。
 稔は後ろを振り返って三角山を見た。
 昨日の出来事なのに、ずいぶん前のことのように思えた。
 
                        
いちじくの実 終わり 
第二章 石袋(いしぶくろ)に続く。
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