第66話 ニセ百円札 25
文字数 2,315文字
*
駄菓子屋の前で、達也がもう一度、おじさんに訊いた。
「ゆきこの顔をよく見て、はっきり答えてんか?」
「……よう、覚えてへんのや」
達也が追及しても、のらりくらりとはっきりしない。最後に黙り込んでしまった。
「もう、ええやろ。おっちゃんをいじめんといたって」
おばさんが、早く帰れとでもいうように、手で追い払う仕草をした。
「ゆきこをいじめたんは、そっちが先やろ」
達也が言い返した。
大人の勝手な言い草が、稔には信じられない。
「僕が、いろいろ調べてくるわ」
長沢が、電池式のブザーを鳴らして、自転車を漕いでいった。
その後を、博史が追いかける。
雪子を真ん中にして駄菓子屋を後にする。
「おばちゃんは、オモチャの百円札を使われたことよりも、おじちゃんを騙した相手に怒ってるみたいやな」
「なんで、あんな半端なおじちゃんに、こっちが気を遣わんとアカンのや」
元々、おばさんの思い込みで始まったことなのにという思いは稔にもある。
しかし、雪子が華房からもらったオモチャの百円札と、交換会で売れた四百円を持っているのを知っている。
もしかするとと思う気持ちを捨てきれないのだ。
「あそこにすんでるのは、ほんまやけど、それがわるいようにいうのは、おかしいわ」
雪子がぽつりといった。
稔は雪子が冷静なことに驚いた。そして、今なら聞くことが出来ると思った。
「この前の五百円は、律ちゃんに渡したんやな」
一瞬、稔を見上げた雪子の目が見開いたが、すぐに顔を前に戻した。
稔は口にしてはいけなかったと気づいた。
確認をしたかっただけなのに、雪子は疑われていると思ったみたいだ。
雪子の家までの道を、黙ったまま歩いた。
入り組んだ路地を抜けると、井戸がある一画に出た。数人のおばさんが井戸端にいたが、ひとりのおばさんが声をかけてきた。
「雪ちゃん、どうかしたんか?」
その声で、稔は雪子の顔を覗き込んだ。
唇をかみしめて、泣いてしまうことを、ぎりぎり踏みこたえているように感じた。
「恐かったんやな。もう、家やから安心や」
窓ガラスが西陽に照らされて眩しい家には、律子しかいない時間だ。
雪子と一緒に中へ入って、律子の様子を見たいと思うのだけれどためらっていた。
家の前で雪子が振り向いた。
「たっちゃんは、ゆきこをしんじてくれたけど、みのるくんは、しんじてくれへんかった」
そういうと、家の中に駆け込んでいった。
引き戸がぴしゃりと閉まると、すぐに泣き声が聴こえてきた。
いままで我慢していたことがわかる激しい声だった。
「みのるが悪いんやない」
達也が稔の肩をぽんぽんと叩いた。
帰る前に、稔は一度だけ振り返った。
窓ガラスに当てている手のひらが見えた。
顔のあたりは光が射して眩しくて、表情まではわからないが、律子にちがいない。
「ごめんな律ちゃん! ゆきこを疑ってしまった」
稔は、家のなかへ向けて叫んだ。
動き出すことが出来ないでいる稔の腕を、達也がひっぱった。
とぼとぼと歩き始めた。
「ぼく、ゆきこを疑ったんや」
「おれも、雪子がオモチャの百円札を持ってるのを知ってたら、そうやったわ」
「……」
「謝まるのは、律ちゃんやないで、ゆきこにや」
「そうやった……
「みのるは、正直すぎるもんな。それに、女心を知らんからな」
慰められているのか、バカにされているのかわからなかった。
家に帰ると、玄関を塞ぐようにスクータが停まっていた。工場の若い男がダンボール函を運び出してスクーターの後ろに積んでいる。
稔はスクーターが出るのを待っていられなくて、狭い間に入って行った。
「スクーターが倒れるやないか!」
「もっと、離れて停めたらええねん」
若い男を押しのけて玄関に入った。
文江がシャツがすっかり無くなった三畳間で、放心したように座っている。
「気分が悪くなったんか?」
「……お帰り。大丈夫や」
「ただいま。兄ちゃんに、あの言葉をいうたんか」
「そうや」
文江は力なく笑った。
その夜、工場から帰って来た寛之に、文江は着物を着て学校へ行ったことも、内職の仕事のことも話さなかった。
そして、夕食が終ると、「達也ちゃんとこに行って、工場のこと聞いてくるわ」と家を出て行った。
稔は文江がどうして、寛之に相談しないのか不思議だった。
寛之はいつものようにショートピースを吸い終わると、座机に向かって仏像の続きを彫り始めた。
その姿を見ていると、稔の気持ちが落ち着くのだけれど、逆に、どうしてこんなに無関心でいられるのかと思う気持ちもふつふつと湧き上がってくるのだった。
稔はただじっと、寛之の背中をにらみつけていた。
……なにを考えているのだろう?
シャツが全てなくなっているのに、文江が目の前で困っているというのに、そばにいるのにどうして独りで彫り物が出来るのか?
しかし今は、寛之に怒りをぶつけるわけにはいかない。これ以上、文江を困らせたくないのだ。
稔は父親の背中をにらむのをやめて、裏庭の無花果の木に目を移した。
文江は一時間ほどして帰って来た。
「みのるはミシンのこと、知ってたんやな」
「……ごめん。いわなあかんと思ってたんやけど」
「ええんよ。気を遣ってくれたんやろ」
「……うん」
「おおきにや」
「それで、なんかわかったんか?」
「話は、明日にするわ」
文江は灰皿から、吸い殻をつまみ上げると、大きな裁縫ハサミで端を切り落とした。
短くなったタバコを、ショートピースの空き缶に入れ、一本をキセルに詰めて吸い始めた。
オモチャの百円札の騒ぎが大きくなったのは、雪子の父親の裕二が、駄菓子屋に乗り込んで、おばさんを脅かしたからだ。
ニセ百円札 26 に続く。
駄菓子屋の前で、達也がもう一度、おじさんに訊いた。
「ゆきこの顔をよく見て、はっきり答えてんか?」
「……よう、覚えてへんのや」
達也が追及しても、のらりくらりとはっきりしない。最後に黙り込んでしまった。
「もう、ええやろ。おっちゃんをいじめんといたって」
おばさんが、早く帰れとでもいうように、手で追い払う仕草をした。
「ゆきこをいじめたんは、そっちが先やろ」
達也が言い返した。
大人の勝手な言い草が、稔には信じられない。
「僕が、いろいろ調べてくるわ」
長沢が、電池式のブザーを鳴らして、自転車を漕いでいった。
その後を、博史が追いかける。
雪子を真ん中にして駄菓子屋を後にする。
「おばちゃんは、オモチャの百円札を使われたことよりも、おじちゃんを騙した相手に怒ってるみたいやな」
「なんで、あんな半端なおじちゃんに、こっちが気を遣わんとアカンのや」
元々、おばさんの思い込みで始まったことなのにという思いは稔にもある。
しかし、雪子が華房からもらったオモチャの百円札と、交換会で売れた四百円を持っているのを知っている。
もしかするとと思う気持ちを捨てきれないのだ。
「あそこにすんでるのは、ほんまやけど、それがわるいようにいうのは、おかしいわ」
雪子がぽつりといった。
稔は雪子が冷静なことに驚いた。そして、今なら聞くことが出来ると思った。
「この前の五百円は、律ちゃんに渡したんやな」
一瞬、稔を見上げた雪子の目が見開いたが、すぐに顔を前に戻した。
稔は口にしてはいけなかったと気づいた。
確認をしたかっただけなのに、雪子は疑われていると思ったみたいだ。
雪子の家までの道を、黙ったまま歩いた。
入り組んだ路地を抜けると、井戸がある一画に出た。数人のおばさんが井戸端にいたが、ひとりのおばさんが声をかけてきた。
「雪ちゃん、どうかしたんか?」
その声で、稔は雪子の顔を覗き込んだ。
唇をかみしめて、泣いてしまうことを、ぎりぎり踏みこたえているように感じた。
「恐かったんやな。もう、家やから安心や」
窓ガラスが西陽に照らされて眩しい家には、律子しかいない時間だ。
雪子と一緒に中へ入って、律子の様子を見たいと思うのだけれどためらっていた。
家の前で雪子が振り向いた。
「たっちゃんは、ゆきこをしんじてくれたけど、みのるくんは、しんじてくれへんかった」
そういうと、家の中に駆け込んでいった。
引き戸がぴしゃりと閉まると、すぐに泣き声が聴こえてきた。
いままで我慢していたことがわかる激しい声だった。
「みのるが悪いんやない」
達也が稔の肩をぽんぽんと叩いた。
帰る前に、稔は一度だけ振り返った。
窓ガラスに当てている手のひらが見えた。
顔のあたりは光が射して眩しくて、表情まではわからないが、律子にちがいない。
「ごめんな律ちゃん! ゆきこを疑ってしまった」
稔は、家のなかへ向けて叫んだ。
動き出すことが出来ないでいる稔の腕を、達也がひっぱった。
とぼとぼと歩き始めた。
「ぼく、ゆきこを疑ったんや」
「おれも、雪子がオモチャの百円札を持ってるのを知ってたら、そうやったわ」
「……」
「謝まるのは、律ちゃんやないで、ゆきこにや」
「そうやった……
「みのるは、正直すぎるもんな。それに、女心を知らんからな」
慰められているのか、バカにされているのかわからなかった。
家に帰ると、玄関を塞ぐようにスクータが停まっていた。工場の若い男がダンボール函を運び出してスクーターの後ろに積んでいる。
稔はスクーターが出るのを待っていられなくて、狭い間に入って行った。
「スクーターが倒れるやないか!」
「もっと、離れて停めたらええねん」
若い男を押しのけて玄関に入った。
文江がシャツがすっかり無くなった三畳間で、放心したように座っている。
「気分が悪くなったんか?」
「……お帰り。大丈夫や」
「ただいま。兄ちゃんに、あの言葉をいうたんか」
「そうや」
文江は力なく笑った。
その夜、工場から帰って来た寛之に、文江は着物を着て学校へ行ったことも、内職の仕事のことも話さなかった。
そして、夕食が終ると、「達也ちゃんとこに行って、工場のこと聞いてくるわ」と家を出て行った。
稔は文江がどうして、寛之に相談しないのか不思議だった。
寛之はいつものようにショートピースを吸い終わると、座机に向かって仏像の続きを彫り始めた。
その姿を見ていると、稔の気持ちが落ち着くのだけれど、逆に、どうしてこんなに無関心でいられるのかと思う気持ちもふつふつと湧き上がってくるのだった。
稔はただじっと、寛之の背中をにらみつけていた。
……なにを考えているのだろう?
シャツが全てなくなっているのに、文江が目の前で困っているというのに、そばにいるのにどうして独りで彫り物が出来るのか?
しかし今は、寛之に怒りをぶつけるわけにはいかない。これ以上、文江を困らせたくないのだ。
稔は父親の背中をにらむのをやめて、裏庭の無花果の木に目を移した。
文江は一時間ほどして帰って来た。
「みのるはミシンのこと、知ってたんやな」
「……ごめん。いわなあかんと思ってたんやけど」
「ええんよ。気を遣ってくれたんやろ」
「……うん」
「おおきにや」
「それで、なんかわかったんか?」
「話は、明日にするわ」
文江は灰皿から、吸い殻をつまみ上げると、大きな裁縫ハサミで端を切り落とした。
短くなったタバコを、ショートピースの空き缶に入れ、一本をキセルに詰めて吸い始めた。
オモチャの百円札の騒ぎが大きくなったのは、雪子の父親の裕二が、駄菓子屋に乗り込んで、おばさんを脅かしたからだ。
ニセ百円札 26 に続く。