36 『夜が匂う夏』 初稿 4 

文字数 3,744文字


 家に帰ると、座り机の上に被せてある白い布を取った。
 彫りかけの仁王像の顔を横に向けた。数本並べてあるノミから、いつもの刃先の広いノミを選んで木槌と一緒に持って台所へ行った。
 氷冷蔵庫の上段に入れてある氷柱の角に、ノミを当てて木槌で打った。三回ほどで、こぶしの大きさの欠片が出来た。流し台に持っていき、まな板の上で細かく砕いた。
 コップに入れた氷に水道水を少し注ぐ。右手でフタをして振り回して氷を洗う。そのまま右手を少しずらせて、隅に置いてある水を貯めるバケツに流した。
 ノミと木槌を元通りに揃えて布を覆った。

 両手にコップを持って、肘で引き戸を開け閉めした。
「カチワリを作ってくれたんか?」
 受け取った明美は、コップを頬に当てた。
 稔は大きい氷を口に含んで、明美に近付いた。冷たい息を首筋に送った。
「冷たくて、ええ気持ちやわ」
 明美が目を細めた。口が疲れるまで何度も繰り返す。ひと休みして氷を舌で転がした。
「もう、おしまい?」
 返事の代わりに稔は、大きく息を吹き付けた。小さくなった氷の塊まりが、明美の胸のあいだに飛んだ。
「ふぁわ」と声を上げた明美は、急いで胸に右手を差し込んだ。
 身体をよじる明美の姿が可笑しくて、稔はこみ上げてくる笑い声を我慢することが出来なかった。
「かなわんなぁ、稔ちゃん。悪さしたらあかんで」
 明美も、くっくっと肩を揺らせる。
「もう、めちゃくちゃでござりますがなーぁ」
 稔がアチャコを真似て言うと、明美は大きな笑い声を上げた。

 突然、玄関の戸が開く音がした。
「失礼しまっす」
 男の声に稔は慌てて障子を開けて玄関まで行った。鍵を締め忘れていた。半袖の青い開襟シャツの若い男が立っていた。いやな目つきをしていたので腕を組んだ。
「だれや?」
「姉やんが世話になってるやろ」
 むっとした顔で若い男は乱暴に言い捨てた。
「幸夫か?」
 明美が、稔の後ろから声をかけた。
「照代さんは、いてへんのか?」
「買い物に出たはるわ」
「上がらせてもらうで」
 幸夫は稔を押しのけるようにして入ってきた。
「照代さんにこんなガキがいたんか?」
「隣の子や。うちの相手をしてくれてるねん」
「どっちが姉やんのや?」
 座卓に置いてあるふたつのコップを顎でさした。
 明美が使っていたコップを幸夫の前に滑らせた。
 幸夫は氷を口に入れると、音を立てて噛み砕いた。そして、コップを振って底に溜まった水を最後の一滴まで飲み干すと、座卓にぶつけるように置いた。
「笑い声が外まで聴こえたわ。姉やんが笑うなんて珍しいな」
「稔ちゃんが、笑わせるんや」
 明美に頬を指でつつかれても、稔は顔を避けなかった。

 幸夫は鋭い目で色んな場所に目を走らせている。稔の気分を落ち着かなくさせた。
「何も盗らんと帰ってよ」
「ガキがいるのに、人聞きの悪いこと言うな」
「お願いやからね」
 稔は夢中でテレビを観ているふりをした。
 幸夫が、胸ポケットからはみ出ていた紙片を取りだして、明美に渡すのが目の端に見えた。
「栄町の映画館のタダ券や。見舞いに持ってきたわ。何を上映しているかはお楽しみや」
「おおきに、赤木圭一郎の『拳銃無頼帖』やってたらええんやけどな」
「姉やん、そのシリーズは何回も観てるやんけ。死んだ男より、小林旭を追いかけた方がええで」
「惚れたら一途や。抜き射ちの竜と宍戸錠の殺し屋、コルトの銀のコンビは最高やわ」
稔も日活の映画スター、赤木圭一郎がゴーカートで事故死したことは知っていた。
「稔ちゃんは、映画好きか?」
「お母ちゃんに『まぼろし探偵』を観に連れて行ってもろたわ。新吾十番勝負』も観たわ」
 訊かれたので、顔を向けて答えた。幸夫と視線が合いそうになったので、目を逸らせた。
「小便したくなったわ。ちょっと便所貸してや」
「あかん。外でして。ここで帰って」
「なんや、実の弟を信用出来へんのか」
 決まりが悪いのを隠すように幸夫が怒鳴った。
「信用して何回泣かされたことか、両手の指では足らへんわ」
「分かったわ。こっちも忙しい身や。ぼうず、金田っていうおっさんの家を知らんか? 足の悪い女の子がいてる家や」
 雪子の父親のことだとすぐに分かった。
「何の用事やの?」
 明美が稔の知りたいことを訊いてくれた。
「この辺に住んでるって聞いたんや。挨拶だけしておこうと思ってな」
「ぼく、そんな家知らんわ」
 咄嗟に嘘を言った。雪子や姉の律子に近づけたくないと思った。
「ほな、帰るわ」
 立ち上がった幸夫を、明美が玄関まで送った。

 テレビをつけたままにしていたけど、稔はほとんど画面に注意を向けていなかった。
 しばらくして、照代が買い物から帰ってくると、すぐに「誰か来たの?}と訊いてきた。
 コップも家に持って帰っていたので、どうして照代が気づいたのか不思議だった。
「弟が、お見舞いに来てくれたわ」
「それはよかったわね」
 そう言ったけど、照代は急にそわそわして奥の部屋に入っていった。襖の向こうから、引き出しを開け閉めする音がした。
 明美はじっとテレビを観ている。稔は座っていられなくて立ち上がった。
「ちょっと早いけど、火ぃ起こしとくわ」
 明美は稔を見ようともしなかった。

 外に出ると、稔は大きく息を吐いた。
 家に戻って、七輪と木炭が入った一斗缶を玄関先に出した。いつもなら斧で薪を割るのだが、今日は彫刻の削りかすを使うことにした。
 稔が七輪に火を起こしていると、達也が白いひも靴で走ってきた。
「もう火ぃ起こしてんのか、えらい早いな。みのるが一番や」
 路地ではまだ、どの家も煙を立てていなかった。
「たっちゃんの方こそ早いやんか」
「他のテレビも観せてもらおと思ったんや」
 達也は肩を引っ付けるようにして、横にしゃがんだ。
 稔は視線を、達也の足には大きいひも靴に落とした。
「田んぼに入ったから、くつを洗ったんや。お姉のくつ、黙って履いてきた」視線に気付いた達也が答えた。
「みのるに恥をかかせへんように、ズボンも着替えてきたで」
「ゆきこの面倒、みてくれたか?」
「うん。でも、長沢がカエルの腹を開いた時に帰ったわ」
「一人で帰らせたんか」
 田んぼから雪子の家まではずいぶん距離がある。
「さっきも空き地に居たから大丈夫や。それより、早く火を起こして中に入ろや」
 達也は稔の手から団扇を取って、下側の通風口をバタバタとあおいだ。煙が上がってくると、稔は彫刻の削りかすを上からふりかけた。木炭に火がまわり始めた。
 稔は照代を呼んだ。
「たっちゃんと一緒にテレビ観てもええやろ」
 台所から顔を出した照代に言った。
「お邪魔します」
 達也が、稔の後ろから声を張り上げた。
 座卓に片肘をついて座っていた明美を見ると、達也は更に声が大きくなった。
「お姉ちゃん、大きな乳やな」
「おおきに」
 明美が腕を組んだので、よけいに胸のふくらみが盛り上がった。
テレビの画面に、『ローン・レンジャー』が映った。
「久しぶりやわ。ローン・レンジャー観るのは」
 達也は四つん這いになって、テレビに近付いていった。
「カッコええな」
 稔も同じようにして、横に並んだ。
「うち、主人公のクレイトン・ムーアが大好きやから、毎週観てるわ」
 明美が得意気に言ったときに、馬にまたがったローン・レンジャーが「ハイヨ~、シルバー」と叫んだ。稔と達也は正座になって拍手をした。つられたように明美も手を叩いた。
コマーシャルになったので、稔が宣言した。
「途中で『ふしぎな少年』に変えるで」
『ローン・レンジャー』は六時十五分から始まって四十五分に終わる。三十五分に始まる『ふしぎな少年』と重なってしまうのだ。
「なんで? 『ふしぎな少年』は毎日放送しているから、明日も観れるやんか、これが終わってからならええけど」
「ぼく、おばちゃんと約束したわ」
「テレビを観てもええかって聞いてたけど、番組は言わへんかったやろ」
「子どもに観せてあげたら」
 騒ぎを聞きつけた照代が、台所から声をかけてくれた。
「この子らは、他にも観せてもらえる場所があるやろ。うちは、ここしかないんや」
 明美が言い返す。
「長沢診療所に行くしかないな」
 達也が稔の耳元で囁いた。
「ごめんな」
「かまへんわ」と稔の肩を軽く叩いた達也は、明美に向きなおった。
「お姉ちゃんも、栄町で働いてはるんか?」
「そうや」
「あそこは犬も猫も食べるから、一匹もいてへんいうのは、ほんまか?」
 長沢に訊いてこいと言われていたことだ。

 明美はしばらく質問の意味を考えてから答えた。
「ほんまやで」
「嘘やろ!」達也と同時に稔も声を上げた。
「そう思うんやったら、何で訊いたんや」
「なんでって、なあ」
 達也が稔に同意を求めてきた。
「女の人は、乳だけと違って生き血も吸われるんや。それに、男の人は尻の毛まで抜かれてしまうわ」
「尻の毛って?」稔が訊いた。
「何も残らへんくらいだまし取られるってことや」
「それやったら、誰も幸せにならへんな」
「やっぱり、稔ちゃんは面白いこと言うわ」
 明美に指で頬をつつかれた。達也には肘で脇腹をつつかれた。柱時計に目をやると六時三十分を過ぎている。
 ローン・レンジャーの相棒のトントが「白人嘘つき。インディアン嘘つかない」とまだ言っていない。
 未練を残して立ち上がると、急いで外に出た。

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