53 『空、駈ける馬』 初稿 1 

文字数 4,390文字


 次に書いたのが、『空、駈ける馬』なんだ。
 雪子は登場しているが、大怪我をした律子のことは書いていない。
 最終的には、律子がまだ大怪我をしていない第三章に組み入れている。

 この作品で、三人称視点で書くことに決めた。
 つまり、稔の視点だと地の文で「母親」「父親」となるのを「文江」「寛之」とした。
 (『文枝』を「文江」に漢字を変更した。)

 向かい側の家に住む増井は、中年の「おっちゃん」として登場する。

2016・4・17(日)
 合評に提出した時、連作を書くと決めていたので、毎回同じ状況設定を書く必要は無いと考え、次のような文章を付け足した。

 昭和三十六。主人公の浦山稔はもうすぐ五年生。
 稔の住んでいる家は大阪の守口市、京阪電車沿いにある長屋で、老築化した建物が寄り添って建っている。


『空、駈ける馬』       

 稔が目を覚ました時、母親の枕の向こうにふとんが盛り上がっているのが見えた。
 父親の寛之がまだふとんの中にいることに驚いた。裏庭に差し込む光で障子が明るい。いつもなら工場へ行って、家にいない時間のはずだった。
 ふとんを抜け出して、ゆっくりとふすまを開けた。
 柱時計は六時四〇分を指している。
 六畳間の炬燵の上に、茶碗と皿が並べられてあった。みそ汁の匂いが丸火鉢に掛けてある鍋からは、流れてくる。
 三畳間に続く磨りガラスの引き戸の向こうからミシンの音がしていた。いつものように母親の文江が内職を始めている。
 ふすまをそっと閉めた稔は、小皿に盛ったジャコをひとつまみ口に入れてから炬燵を横切って磨りガラスの引き戸を開けた。
 三畳の部屋はすでに白いシャツが積み上げられていた。玄関の土間に一畳ほどの板を敷いた上で足踏みミシンを掛けている文江の背中に駆け寄った。
「お父ちゃん、気鬱(きうつ)になりはったんか?」
 稔は弾んだ声を上げた。
 ミシンの手を止めた文江は振り向いて、人差し指を唇に立てた。
「背中が痛むらしいわ」
 稔の耳元でささやくように言った。
「昨日、冷たい雨が降ったからやな」
 小学校が春休みになった矢先の雨で、一日中外遊びが出来なかった。

 季節の変わり目になると寛之が背中にある大きな傷跡が痛いと言って、布団から起きてこないことは時々あることだった。
 寛之が気鬱で工場を休むと、気晴らしのために、家族三人で外へ出かけることが恒例になっていた。
 今までに一番多いのが、梅田へ映画を観に行くことだった。寛之が好きな映画を観ている間に、文江が稔の希望する映画に連れていってくれるのだ。その次が寛之が工場から帰ると、毎晩彫っている仏像の参考にするためのお寺や美術展巡り。そして、仏像の材料にする流木を探すために淀川の堤防へ、ピクニックを兼ねて行くこともあった。

「今日、映画に行かはるかな。たっちゃんはこの前、新吾二十番勝負に連れていってもらいはったんやで」
「しぃぃっ」
 文江が稔の口に人差し指を押し付けた。
「お父ちゃんに聞こえたら、おへそ曲げてしまいはるわ」
 稔が頷くと文江は前を向いてミシンのペダルを踏んだ。
 右のベルトが回転して針が上下する。シャツにタグを縫い付けると、手の中の握りばさみで切って後の三畳の部屋に放り込む。
「ぼく、お腹すいた。お父ちゃんを待ってたら飢え死にしてしまうわ」
「先に二人で食べよか。お父ちゃんの工場に電話しに行かなあかんしな」

 稔と文江が食事を終えた七時を過ぎても、寛之は起きてこなかった。
「職長さんに電話しに、たばこ屋さんまで行ってくるわ」
文江がそう言い残して玄関を出て行った。
 一人になると、今にも寛之がふすまを開けて出てきそうな気がして、稔は落ち着かなくなった。
 パジャマ姿のまま長靴を履いて外に出る。
 雨が上がった路地は土のにおいがした。古い家がひしめいている狭い道が、ぬかるんで所々に水たまりが出来ていた。
 稔は玄関口に敷き詰めてある砂利をひとつかみして、家の前にできた水たまりの縁に座り込んだ。
 大きなアメンボがすいすいと動きまわっていた。六本ある脚の短い前脚と細長い後脚の四本で水面に立ち、中脚で水を蹴っている。
 アメンボを近寄らせるために、米粒ぐらいの石を水面に映った自分の顔の真ん中に落とした。水が小さくはねて波紋が広がる。その中心に向かって、アメンボが近寄ってくる。
 アメンボが揺れている顔の上に黒い影を滑らせた。
 稔は腕を上げて、握りしめていた手の小指をゆるめた。砂利がアメンボに降りかかって、波紋が次々と生まれていく。大きなアメンボは水面を蹴り、素早くジャンプをした。水の中から稔を見つめていた顔がくだけた。

「みのる! 悪さして、朝から家を出されてんのか?」
 声に振り向くと、向かい側の家に住む増井が線路沿いの国道から、ぬかるんでいる路地に入ってきていた。脇に小さなカバンと黒いコウモリ傘を一緒に挟んでいる。
「ちがうわ!」
 稔は立ち上がって増井の顔を睨みつけた。
 青白い顔にまっ黒な顎ひげが、付けひげのようにくっついている。時々、寛之に読んで欲しいと組合のチラシを持ってきたりした。
「学校が休みになると子どもの声がうるさくて、夜勤で疲れているのに寝られへんわ」
 増井は何が面白いのか、クックックと笑った。
「そんなん知らんわ」
「春休みは学年が上がるんやから、昼まで家の中で勉強せんとあかん法律を作って欲しいわ。そうしたら、日本の子どもの頭が良くなるし、おっちゃんもぐっすり眠れるさかいな」
 玄関前で増井は、傘の先で靴の裏を叩いて泥を落としながら言った。
「おっちゃんの勝手のために、ぼくらが遊ばれへん法律なんか出来るわけないわ」
「一人は万人のために、万人は一人のためにや、教えてもろてへんか」
「知らん」
「今度は何年生になるんや?」
「五年生」
「六年生で教えてもらうことや。早く覚えて得をしたな」
 その時、増井の後ろの引き戸が少し開いた。
「あほなこと言うてんと、早よ入っといで」
 増井の母親の小さな声が稔にも聞こえた。
「はい、はい」
 増井はクックックと笑うと、玄関の引き戸を開けて中に入っていった。
 稔は左手に持っていた残りの砂利を全て水たまりに放り投げた。アメンボが必死に逃げ惑い、水面に多くの波紋が広がった。

 稔は玄関脇に置いてある木製のゴミ箱の角で、長靴の裏についた泥を拭った。
 線路のレールを走る車輪の響きが聴こえてきた。顔を上げると、緑色の京阪電車が路地の向こうを走り抜けて行った。
 稔はゴミ箱の蓋に座って反対側の路地に顔を向けた。ようやく路地の先に、文江の姿を見つけた稔は、駆け寄って行きたい思いでいっぱいになった。しかし、立ち上がるのを我慢してゴミ箱に座ったままでいた。

 赤い長靴を履いた文江は、軽いステップを踏んで水たまりを避けながら帰ってきた。
「お父ちゃんの機嫌が悪くて、外に出されたんか?」
「お母ちゃんを待ってたんや。遅いから職長さんに怒られてると思って心配したわ」
 文江は玄関前の砂利で長靴の底を擦りつけてから、稔の頬を両手で挟んだ。
「寒かったやろ堪忍してな。たばこ屋のおばちゃんとお喋りしてたんや」
「しょうがないな。許したるわ」
 ゴミ箱から立ち上がると、稔は文江の後ろについて家の中に入った。
 奥の部屋のふすまが閉ざされたままで、寛之が起きだした気配はなかった。
「増井のおっちゃんが、一人は万人のために、万人は一人のためにって、六年で習うと言うたけど、ほんまかな」
「勉強のことはよう分かれへんわ。増井さんに会ったんか?」
「仕事から帰ってきはったんや。おばあちゃんの声も聞いたで」
 一緒に暮らしている増井の母親は、数年前に増井がデモで警察に捕まってから外へ出てこなくなっていた。
「それはよかったな。今日、ええことあるかもしれへんな」
「お父ちゃん、映画に行きはったらええのにな」
 文江はミシン掛けの内職に戻った。稔は散らばっているシャツを集めて積み上げてから、一枚ずつきれいにたたんでいく。百枚揃えると一円の小遣いになる。
 タンスの前に五つの山が並んでも寛之は起きてこない。

「みのる、公園に遊びにいこ!」
 声と同時に引き戸を開けて同級生の達也が顔を覗かせた。稔は手に持っていたシャツを放り投げて玄関へ行った。
「お父ちゃんが、映画に連れていってくれはんねん」
「工場、休みはんのか?」
「うん!」
 稔は大きくうなずいた。
「新吾二十番勝負の映画、連れて行ってもらったらええわ」
「もちろんや。雪子の面倒、見たってな」
 近くに住んでいる五歳の雪子は、稔になついていつも一緒に遊んでいた。
「任しとき」
 達也はわざわざ水たまりを跳び越えてから、線路沿いの国道へ走って行った。
「みのる。あんなこと言ってええんか」
 文江の声が後から飛んできた。
「映画へ行きたいもん!」
 稔は力を入れて引き戸を閉めた。

 九時を過ぎて寛之がようやく起きてきた。
 遅い朝食を済ませると新聞を読み始めた。
 稔は寛之の後姿を横目でチラチラ見ながらシャツを畳んでいた。
 寛之の座ると三畳間への出入りを塞ぐので、台所から玄関に下りてきた文江が、稔の畳んだシャツの山をポンポンと叩いた。
「みのる。これ、やり直してや」
 不揃いに畳んだ山が二つほどあった。
「お母ちゃん、どこに行くか訊いてえな」
「自分で尋ねたらええやん」
 二人の声が聞こえたのか寛之が新聞を読みながら「淀川に行く」と宣言した。
「えっ! 淀川」
 稔は思わず足でシャツの山を蹴ると、四つほどの山が崩れた。
 文江が稔の太腿をピシャッと叩いた。
「みのるとお母ちゃんはツクシ採りしょうか。早速、お弁当作るわ」
 文江がそう言って立ち上がると台所へ向かった。稔はすぐに後を追った。
「たっちゃんにも言うたし、新吾二十番勝負に連れていってもらいたいわ」
 稔が文江のスカートを引っ張りながら小声で言った。
 文江は稔の耳元に顔を近づけた。
「お父ちゃんに映画へ連れて行って欲しいって頼んだらええわ」
 稔には自分が何を言っても父親が聞いてくれないことが分かっていた。
「お母ちゃんが頼んでえな」
「そんなことしたら、お父ちゃんに怒られるわ」
「なんで淀川なんや。雨が降ったあとやから、足元が悪いで」
「お父ちゃんが行きたいんやから、しょうがないやろ。みのるは画用紙と絵の具セット持って行って写生しいや。また金賞もらったらええわ」
 四年生の夏休みの宿題で描いた裏庭の無花果の木の絵が、大阪府の絵画コンクールで選ばれたのだ。
「絵は描きたいと思わんと、描かれへんわ」
 稔はむくれて、スカートを掴んだまま台所に座り込んだ。
「じゃあ、みのるは公園で遊んでてもええよ」
「そんなん、いやや!」
 稔は自分の声が大きくいなったことにはっとした。
「みのる! 文句を言わんと一緒に来い」
 すかさず寛之の声が耳に届いた。稔はスカートから手を離した。

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