57 『空、駈ける馬』 初稿 5
文字数 2,610文字
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「薬湯に入ろか」
達也は小さい湯舟を指した。
真ん中辺りにポコポコと泡が出ていて、異様な臭いがする薬湯は女湯にもあった。茶色く濁っていて底が全く見えないので、どこまでも沈んでいきそうで怖くて入れなかった。
「みのるは入ったことないのか?」
「たっちゃんは、いつから入れるようになったんや」
「お父ちゃんと来た時に、何度も入ってるから平気や」
達也は何の躊躇もしないで薬湯に入った。
稔は達也が沈んでいかないことを確認してから、恐る恐る足を沈めていった。
「ちんちんの先っぽが、じんじんするやろ」
達也に耳元で言われたけど、稔は身体中がじんじんした。
小さい湯舟に浸かっていた老人がうんこが浮いていると騒ぎ始めた。湯舟に入っていた五人の子どもが、端に寄ってひと塊りになった。
「ぼくらとちがうで、ずっとここに入ってたんやから」
達也がまっ先に声を上げた。
「みのると一緒でよかったわ。一人やと、すぐに犯人にされてしまうからな」
「どの子がしたんやろな」
「おじいかもしれんで。お湯に入って気持ちがようなると、お尻の穴が緩むらしいで」
「うんこを調べへんのかな。子どもか大人か分かるのに」
最初に騒いだ老人が、湯桶でうんこを掬いあげている。
「あのおじいも怪しいな」
達也が稔の耳元で言った。
「誰かしらんけど、もうしたらあかんぞ」
子どもたちをひと睨みしてから、湯桶を持って出て行った。便所に捨てに行くようだ。
おじいがいなくなったので、子どもたちはパラパラと湯舟に広がった。
寛之が出たあとを追って稔と達也も脱衣所に行った
「ぼく服を女湯に置いたままやったわ」
稔は服を着るために女湯に行こうとした。しかし、足が番台の前で止まった。急に自分の顔が熱を持ったように感じた。足が動かせなくなった。
「なんや、みのる。耳まで真っ赤やで」
達也が横に来て顔を覗き込んだ。
「ぼくが持ってきたるわ」
そう言うと達也は素早く番台の前の跳ね戸を押して消えた。
すぐに達也の声が聞こえてきた。
「みのるのおばちゃん。みのるの服、取りに来たんや。どこに置いてあるんや」
「たつや! 女湯に入ってきたらあかん」
達也と美也子の声が、ほぼ同時に聞こえた。
しばらくすると、達也が籠に服を入れて持って番台の前を通り抜けてきた。
「お姉ちゃんのおっぱいが、大きくなってたわ」
達也から籠を受け取った稔は、顔がますます熱くなっていくのを感じた。
その夜は、疲れているはずなのに稔は何度も寝返りをうった。
耳慣れているはずの寛之のいびきが、妙に気に障った。目を開けると障子に差し込んだ月光が、裏庭の無花果の黒い影を映し出していた。枝が揺れ動いている影を見ていると、ざわざわと心が騒ぐ。何か悪いことでも起こりそうな気配に稔は目を固く閉じた。しばらくそのままでいた。
しばらくしてそっと目を開けると、雲が月を隠したのか、障子全体が黒い闇に覆われていた。
翌日、稔が目を覚ますと、隣の蒲団はかたずけられていた。
耳を澄ますと、ミシンの音が聞こえてくる。昨日のことの全てが夢の中で起こったことのように思えた。
稔はがばっと起き上がって障子戸を開けた。無花果の木には、いつものように朝の陽ざしが射している。ガラス戸を開けると、無花果の葉がざわと音を立てていた。
稔は縁側を降りて、床の下から馬の枝を取り出した。
「みのる、ご飯も食べんと何するつもりや」
文江がふすまから顔を覗かせた。
「ご飯は後回しや。絵を描きたくなったんや」
「飢え死にしても知らんからな」
文江はふすまを全開にしてミシンに戻って行った。
稔は廊下に新聞紙を敷き詰めた。片隅に置いてある机代わりのみかんの木箱を引っ張りだして画板と画用紙を用意した。
便所の軒先に吊り下げてある手洗器(ちょうずき)から牛乳瓶に水を入れる。
絵の具セットから取り出したパレットを広げて、黄色の絵の具をチューブからひねりだした。たっぷりと水を含ませた平筆で、色を溶いて勢いよく画用紙に色を引いた。
ナタで切り落とされた断面が痛々しい。
赤色を選んだ。チューブを押す指に力が入る。盛り上がった絵の具に平筆ではもどかしく感じて、絵の具のチューブを直接、画用紙に当てて塗った。それから、水を含ませた平筆で色を伸ばしていく。
木から空へ飛び出そうとしている馬。寛之に枝を切り落とされた時に感じた痛み。夜中に見た黒い影。そんな色々な感情も絵の具を押し付けるようにして画用紙にぶつけた。
目の前にある馬の枝を写生するというよりも、稔の頭ので思い浮かんでいる昨日の感情を描きだしていた。そんな自分に気付いて驚いた。
絵の具の先を画用紙に押し付けた。指先で伸ばした。自分の感情を塗り込めるように指を押し付けた。
「画用紙から飛び出して来そうやな」
いつの間にか文江が後から覗き込んでいた。
「びっくりさせんといて!」
指先に付いた色を新聞紙に擦りつけながら言った。
「おぉ恐っ、お父ちゃんに、よう似てるなぁ」
稔は驚いて、みかんの木箱に画板を置いた。
「そんなことないわ」
声に力が入らなかった。
「もうじき達也ちゃんが誘いにくる時間やけど、ええのか」
稔は絵を見つめた。黒の色が欲しい。しかし、完全に乾かしてからでないと色がにじんでしまう。
塗りたくった絵の具を乾かすために、顔を近づけて、息を吹きかけた。
艶やかな表面が、吹きかけた息で白っぽい膜に覆われていく。乾いたかなと指先で押すと、ぺちゃっと沈み込んだので、しばらく縁側に置いといて乾かすことにした。
「ご飯を食べてしまうわ」
ミシン掛けをしている文江に言った。
「みのるが勝手したんやから、食べ終わったらお茶碗を洗うんやで」
「言われんでも分かってるわ」
食事の途中で達也が飛び込んできた。
「なんや、今頃ご飯を食べてるんか。寝坊したらあかんで」
稔は口にご飯を頬張りながら玄関まで行った。しっかりと乾かして昼から続きを描こうと思って公園へ遊びに行くことにした。
「あとで行くから、先に公園へ行っといて」
「分かったわ」
「雪子に今日は一緒に遊べると言うといて」
「それも、分かったわ」
達也を見送ると、稔は引き戸を勢いよく閉めて、食事に戻ろうと身体の向きを変えた。
縁側に置いた画用紙の端が風に浮いて、ばたばたと波打つのが見えた。
稔には描いた絵が、羽ばたいているように思えた。
終わり (六十枚程度)
「薬湯に入ろか」
達也は小さい湯舟を指した。
真ん中辺りにポコポコと泡が出ていて、異様な臭いがする薬湯は女湯にもあった。茶色く濁っていて底が全く見えないので、どこまでも沈んでいきそうで怖くて入れなかった。
「みのるは入ったことないのか?」
「たっちゃんは、いつから入れるようになったんや」
「お父ちゃんと来た時に、何度も入ってるから平気や」
達也は何の躊躇もしないで薬湯に入った。
稔は達也が沈んでいかないことを確認してから、恐る恐る足を沈めていった。
「ちんちんの先っぽが、じんじんするやろ」
達也に耳元で言われたけど、稔は身体中がじんじんした。
小さい湯舟に浸かっていた老人がうんこが浮いていると騒ぎ始めた。湯舟に入っていた五人の子どもが、端に寄ってひと塊りになった。
「ぼくらとちがうで、ずっとここに入ってたんやから」
達也がまっ先に声を上げた。
「みのると一緒でよかったわ。一人やと、すぐに犯人にされてしまうからな」
「どの子がしたんやろな」
「おじいかもしれんで。お湯に入って気持ちがようなると、お尻の穴が緩むらしいで」
「うんこを調べへんのかな。子どもか大人か分かるのに」
最初に騒いだ老人が、湯桶でうんこを掬いあげている。
「あのおじいも怪しいな」
達也が稔の耳元で言った。
「誰かしらんけど、もうしたらあかんぞ」
子どもたちをひと睨みしてから、湯桶を持って出て行った。便所に捨てに行くようだ。
おじいがいなくなったので、子どもたちはパラパラと湯舟に広がった。
寛之が出たあとを追って稔と達也も脱衣所に行った
「ぼく服を女湯に置いたままやったわ」
稔は服を着るために女湯に行こうとした。しかし、足が番台の前で止まった。急に自分の顔が熱を持ったように感じた。足が動かせなくなった。
「なんや、みのる。耳まで真っ赤やで」
達也が横に来て顔を覗き込んだ。
「ぼくが持ってきたるわ」
そう言うと達也は素早く番台の前の跳ね戸を押して消えた。
すぐに達也の声が聞こえてきた。
「みのるのおばちゃん。みのるの服、取りに来たんや。どこに置いてあるんや」
「たつや! 女湯に入ってきたらあかん」
達也と美也子の声が、ほぼ同時に聞こえた。
しばらくすると、達也が籠に服を入れて持って番台の前を通り抜けてきた。
「お姉ちゃんのおっぱいが、大きくなってたわ」
達也から籠を受け取った稔は、顔がますます熱くなっていくのを感じた。
その夜は、疲れているはずなのに稔は何度も寝返りをうった。
耳慣れているはずの寛之のいびきが、妙に気に障った。目を開けると障子に差し込んだ月光が、裏庭の無花果の黒い影を映し出していた。枝が揺れ動いている影を見ていると、ざわざわと心が騒ぐ。何か悪いことでも起こりそうな気配に稔は目を固く閉じた。しばらくそのままでいた。
しばらくしてそっと目を開けると、雲が月を隠したのか、障子全体が黒い闇に覆われていた。
翌日、稔が目を覚ますと、隣の蒲団はかたずけられていた。
耳を澄ますと、ミシンの音が聞こえてくる。昨日のことの全てが夢の中で起こったことのように思えた。
稔はがばっと起き上がって障子戸を開けた。無花果の木には、いつものように朝の陽ざしが射している。ガラス戸を開けると、無花果の葉がざわと音を立てていた。
稔は縁側を降りて、床の下から馬の枝を取り出した。
「みのる、ご飯も食べんと何するつもりや」
文江がふすまから顔を覗かせた。
「ご飯は後回しや。絵を描きたくなったんや」
「飢え死にしても知らんからな」
文江はふすまを全開にしてミシンに戻って行った。
稔は廊下に新聞紙を敷き詰めた。片隅に置いてある机代わりのみかんの木箱を引っ張りだして画板と画用紙を用意した。
便所の軒先に吊り下げてある手洗器(ちょうずき)から牛乳瓶に水を入れる。
絵の具セットから取り出したパレットを広げて、黄色の絵の具をチューブからひねりだした。たっぷりと水を含ませた平筆で、色を溶いて勢いよく画用紙に色を引いた。
ナタで切り落とされた断面が痛々しい。
赤色を選んだ。チューブを押す指に力が入る。盛り上がった絵の具に平筆ではもどかしく感じて、絵の具のチューブを直接、画用紙に当てて塗った。それから、水を含ませた平筆で色を伸ばしていく。
木から空へ飛び出そうとしている馬。寛之に枝を切り落とされた時に感じた痛み。夜中に見た黒い影。そんな色々な感情も絵の具を押し付けるようにして画用紙にぶつけた。
目の前にある馬の枝を写生するというよりも、稔の頭ので思い浮かんでいる昨日の感情を描きだしていた。そんな自分に気付いて驚いた。
絵の具の先を画用紙に押し付けた。指先で伸ばした。自分の感情を塗り込めるように指を押し付けた。
「画用紙から飛び出して来そうやな」
いつの間にか文江が後から覗き込んでいた。
「びっくりさせんといて!」
指先に付いた色を新聞紙に擦りつけながら言った。
「おぉ恐っ、お父ちゃんに、よう似てるなぁ」
稔は驚いて、みかんの木箱に画板を置いた。
「そんなことないわ」
声に力が入らなかった。
「もうじき達也ちゃんが誘いにくる時間やけど、ええのか」
稔は絵を見つめた。黒の色が欲しい。しかし、完全に乾かしてからでないと色がにじんでしまう。
塗りたくった絵の具を乾かすために、顔を近づけて、息を吹きかけた。
艶やかな表面が、吹きかけた息で白っぽい膜に覆われていく。乾いたかなと指先で押すと、ぺちゃっと沈み込んだので、しばらく縁側に置いといて乾かすことにした。
「ご飯を食べてしまうわ」
ミシン掛けをしている文江に言った。
「みのるが勝手したんやから、食べ終わったらお茶碗を洗うんやで」
「言われんでも分かってるわ」
食事の途中で達也が飛び込んできた。
「なんや、今頃ご飯を食べてるんか。寝坊したらあかんで」
稔は口にご飯を頬張りながら玄関まで行った。しっかりと乾かして昼から続きを描こうと思って公園へ遊びに行くことにした。
「あとで行くから、先に公園へ行っといて」
「分かったわ」
「雪子に今日は一緒に遊べると言うといて」
「それも、分かったわ」
達也を見送ると、稔は引き戸を勢いよく閉めて、食事に戻ろうと身体の向きを変えた。
縁側に置いた画用紙の端が風に浮いて、ばたばたと波打つのが見えた。
稔には描いた絵が、羽ばたいているように思えた。
終わり (六十枚程度)