141 七月に入ったのに

文字数 1,141文字


 七月に入ったのに、「北陸文学賞に応募するかを迷っていた。
 応募するなら、組会で酷評された『空の匂い』を書き直すしかない。

 考えあぐねたぼくは、生まれ育った守口市を訪ねることにしたんだ。
『樹木』に掲載された『無花果』と、『空の匂い』の舞台だ。
 今までも何度か文学学校へ行く途中に立ち寄っていたけれど、ほんのショートステイだった。  
 今日はいち日たっぷり歩き回るつもりだ。

 京阪守口駅で降りて、線路沿いを歩く。
 といっても線路が高架化してあるので、記憶にある風景とは全く異なる。当たり前だけど、踏み切りもない。
 線路を支えている巨大なコンクリート柱が一定の間隔で並んでいるだけだ。
 ぼくが東京で暮らしていた1980年ごろから、高架複々線化が進んだようだ。

 まず松月(しょうげつ)公園へ行く。
 小規模な墓地をコの字に囲んでいる公園に人影はなかった。
 携帯電話で時間を確かめると午後二時。昭和三十年代は、夏休みになると子どもたちがうじゃうじゃと動き回っていた時間だ。
『無花果』で主人公の稔たちがラジオ体操に集まるのもこの公園だ。
 すべり台の前に立って墓地を見回すと、子どもの時に多くの時間を過ごしたこの一画が五分の一ぐらいにシュリンクしたように感じる。
 ぼくの身体が大きくなったのではなくて、記憶の中でこの場所が大きく広がっていたのだろう。
 思えば、豊穣な世界で呼吸をしていた。

 見上げると雲が全く動かない。
 頭上から押し付けてくる陽ざしが、足元にくっきりと濃い影を落とす。
 影に導かれるように墓地に入った。
 入口に五体の地蔵が並んでいるが、記憶からはすっぽりと抜け落ちていた。
 墓地の墓石は熱気で膨脹している。

 いつの間にか、『無花果』モードになっていた。
 ぼくの中に今も活き活きと動き回っている子どもたちを、近い日に作品として書きたいと強く思った。
 頭を振って追憶を遠ざける。

『空の匂い』は現在の物語なんだけれど、少女が甘い密の匂いをかぎたいという椿の木も姿を残していない。
 デジタルカメラで撮影をして回る。

 路地に入って生家を眺めた。
 数十年前に長屋が取り壊されて、一戸建てが立ち並んでいる。
 立ち止まっていると、まるで不審者だ。
 横目で見ながら小走りで通り過ぎる。

 小学校までの通学路を歩く。
 所々に懐かしさに胸が熱くなるモノがあった。それは、寺の石段だったり、陽に焼け過ぎた板塀だったり、由来を知らない巨石だったりする。

 駅前の商店街に、島倉千代子の演歌が流れていた。昭和にタイムスリップして、何だか得をした気分だ。
 ぼくは六月の合評を元にして書き直しをすることにした。それを、八月の勉強会に出してから、応募しようと決めた。
 ぼくには、短編を書くためのSメソッドがあるのだ。
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