第73話 ニセ百円札 32

文字数 2,007文字


 雪子に手を引っ張られて路地を出た。
 八カ月振りに見た律子は、色も白くなっていてきれいだった。
 顔に傷がないことも確かめることが出来た。
「ゆきこ、律ちゃんに、どんなこと話してるんや」
「みんな、はなしてる」
「ゆきこ、ごめんやったな」
「もう、おこってへん」
「それやっったら、よかったわ」
 稔はほっとしたのだが、達也が「女心は、いうことと逆のことを想っている」という言葉を思い出した。
「なあ、ゆきこ」
「なんや」
「ほんまに、ごめんな」
「もう、おこってへんわ」
 雪子が向けてくる笑顔が、本当なのかどうかわからない。

 家の前には、二台の自転車が用意してあった。
「お母ちゃん、ゆきこを連れてきたで」
 家に入らないで外から大声でいった。
「すぐ行くから、増井さんに、声をかけといて」
「わかった」
 稔が増井の家に近寄って、「たかし兄ちゃん」と呼び掛けると、ゆきこも「たかしぃにいぃちぁゃん」と声を出した。
 玄関から出て来た増井は、小さなリュックを背負い、丸めて両端をとめているゴザを持っている。
「これ、後ろで持っといてくれ」
「ゴザはいらんのと違うか、地べたにすわればええやん」
「みのるは、それの遊び方をしらんのやな」
「ゴザを敷いてママゴト遊びは、女の子がするもんや」
「文句をいわんと、盛って行くんや」
 
 増井が稔を、文江が雪子を後ろに乗せて行く。
「たかし兄ちゃん、オナラをせんといてや」
「それは、出たらしょうがないやろ」
「したら、絶対許さへんからな」
「それやったら、みのるもしたらあかんで」
「えっ、……無理や和」
「なっ、そうやろ。みのるに無理なら、僕にも無理や」
「それやったら、オナラする前に教えてや」
「間に合ったら、教えるわ」
「絶対、教えて欲しいわ」
 稔は増井が尻を浮かすたびに、顔をそむけるのに忙しかった。

 淀川の堤防に着くと高い土手に造ってある階段を、文江と増井が楽しそうに話しながら、自転車を押して上がっていく。
 その間をすり抜けて、稔は雪子の手を取って先に上堤に上がった。
「うわっ、大きな川に水がいっぱいあるわ」
 雪子が第一声を上げる。
「あの水は、みんなうみになるんやろ」
「そうや、海に向かって流れていくんや」
 稔の脇に自転車を停めながら増井がいっった。
「世界中どこまでも流れていくんや。この地球の反対側へ流れ着いても水は水なんや。あそこにある水とずっと遠くにある別の国の水も同じなんや」
 この光景は心地よかった。
 稔の心の中のまだ晴れない思いも水に流されるような気がする。

 土堤の斜面に、多くの人影があった。ツクシ採りをしているようだ。
 河原で大声を出してバレーボールの練習をしているのは高校生のようだ。
 渡し場まで続いている細い道のままだった。渡し場では、舟を待っている人たちが大勢いる。 
 向うの土堤の上に突き出ているる工場の煙突からは、今日も黒い煙が空に溶けている。

 「早くツクシを採りにいこ」
 文江の声を増井が手でとめた。
「これで、少し遊ばせてやりたいわ」
 増井はゴザを広げてから二つに折りたたんだ。
「みのる、一緒に滑ろ」
 ゴザに尻から座った増井は、両足を広げて稔に入れといった。
 「これで下まで滑るんか?」
 稔が少し躊躇っていると、雪子が増井の肩に手を置いた。
「ゆきこがやりたいわ」
「それやったら、ぼくが先にやる」
 雪子を押しのけるようにして、増井の膝の間に座った。
「ズルいわ、みのるくん」
 雪子が怒りだした。
「三人でもやれるから、みのるの前に座ったらええ」

「みのる、雪子をしっかり抱いとけよ」
「わかった」
 増井は両手でゴザの前を掴むと、足を蹴った。
 身体がふわっと浮いたかと思うと河原に向かって滑り落ちて行く感じになった。
「ひゃやぁ!」
 雪子が悲鳴に近い声を出す。
「うわぉ!」
 稔も自然と口から発していた。
 あっと言う間に河原へ着いてしまった。
「恐かったか?」
「へいきや、たのしいわ」
「ぼくも面白いわ」
 稔は虚ねんの春休みに、父親の寛之が奇声を上げながら、土堤の斜面を自転車に乗って下っていった時の気持ちがわかった。

「もう一回やるか」
 増井がそういってから、河原から上がる階段へ向かう。
 稔は増井を追い抜いて一段跳びに駆け上がる。後ろから雪子が必死になって上ってくる。
 
「なんか、危なそうで見てられへんわ」
 土堤で待ち受けていた文江が、心配そうな顔をしている。
「文江さん。危険やから、面白いんやで、なあ、みのる」
 増井が笑いながらいった。
「そうや、面白くて楽しいわ」
「おもしろくて、たのしいわ」
 文江は、恐くて見ていられないので、ツクシを採ってくるといった。
「そうや、ツクシを採りにきたんや。僕らも一緒にいくわ」
「いやや、もっとすべりたい」
 ゆきこが、増井の太ももにしがみついた。
「たかし兄ちゃんが持って来たんやからな。その責任は取ってほしいわ」
 稔は脅かすようにいった。

 
 ニセ百円札 33 に続く。

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