71 『王将落ち』 初稿 5 

文字数 2,996文字


「もう、ぼく帰ってもええわ。月曜日に学校で訊くわ」
 気後れした稔の言葉がきっかけになったのか、達也は呼び鈴の前に行った。
 背伸びをした達也が指先でボタンを押した。
 ジリリィンと大きな音が響く。達也が慌てて稔のところに戻ってきた。
 しばらく身動きもしないで待っていると、通用口の扉が開いて、中年女が顔を覗かせた。
「小百合お嬢さまのお友達?」
 白い前かけをした中年女に、探るような目で見られた。
 稔と達也は、それぞれ名乗って、倉井さんに用事があると言うと、待っているようにと扉を閉めた。
 広い通りには、動くものの影がひとつもない。ゴミ箱を漁る野良犬もいない。
 稔は学校の廊下に立たされているような気分だった。先生の許しがなければ、動くことが出来ない。
 通用口が開いて、中年女が出て来た。
「お嬢さまは、会いたくないって言ってるよ」
 小百合はどんな説明をしたのだろう。稔は達也に顔を向けて肩をすくめた。
「ここのおじいが、みのるの王将を盗ったんや」
 達也が稔を指した。
 中年女は、首を傾げた。
「どうして大だんなさまが」
「みのると将棋をして負けたからや」
 稔は自分が勝ったわけではないと言わないといけないと思った。
「違うで、おじいが」
 と言い始めたとき、大柄の男が通用口に姿を見せた。
「何をしてるんや」
「この子らが、大だんなさまが王将を盗んだって、おかしなことを言うてるんよ」
「ふざけたこと言ってると、閻魔様に舌を抜かれるぞ」
 男は手をひらひらさせて、追い払うような仕草をした。
 稔はむっとして黙ったが、達也は怒りを吐き出す。
「大きな家に盗んだ物をいっぱい隠してるんやろ」
「なんてこと言うんや、このくそガキが」
 男は達也の肩を捕まえようとして手を伸ばした。身体を捻って素早く逃げた達也が「暴力反対!」と後ずさりながら叫んだ。
「その舌、引っこ抜くぞ!」
 大声で怒鳴られて、逃げ出すしかなかった。

「あの暴力男、ぶっ飛ばしてやりたいわ」
 達也がかんかんに怒っている。
「ほんまやな」
 稔も怒りの感情が体の中に突き上げてくるのを抑えられない。
「ええことを思いついたで」
 達也が言うので、一緒に稔の家に帰った。

 ビラを持って玄関に入ると、文江に「そんな汚いもの捨ててしまいや」と叱られた。
外に出て、ビラの束を、手でぱんぱん叩く。
「これできれいになったわ」
 稔は文江にビラを広げて見せた。
「汚したら掃除しいや」
「おばちゃん、まかしとき。みのるは将来、そうじ大臣になる男や」
「あほなこと言うてんと、たっちゃんも掃除するんやで」
「分かってるわ」
 稔はちゃぶ台にビラを広げてクレヨンを用意した。達也とビラの裏に文字を書く。王将の漢字を玉将の駒を見て書こうとしたけど、難しくて平仮名にした。
『王しょう かえせ!』『王しょう どろぼう!』

 書き終わると紙ヒコーキを折る。
「何かあったの?」
 ミシンをかけながら文江が訊いてきた。
「別に何もないわ」
 そう言ったけど、折った紙ヒコーキを、あの屋敷の中に投げ込むのだ。
 稔の頭の中は、前に観た東映スター総出演のカラー映画『赤穂浪士 天の巻 地の巻』の映像が流れている。
 赤穂浪士が吉良屋敷に討ち入りに行くような気分だ。もっとも、稔は大石内蔵助の役をした市川右太衛門よりも、吉良上野介役の月形龍之介が好きだった。
 全てのビラを紙ヒコーキに折ると、二人で後片付けをした。
 達也は目ではなくて、手を使った。

「七輪を使う時間までに帰ってくるんやで」
 夕飯を作るために、火を起こすのは稔がすることになっている。
「分かってるわ」
 そう言って飛び出すと、再び小百合の家を目指した。

 上がり坂を前のめりになって急いだ。
 小百合の家に着くと塀に沿って歩きながら、中から聴こえてくる音に耳を澄ませた。
 立ち止まった達也が、右手を耳に当てて塀に身体を寄せた。稔も同じように塀に耳をつけて張り付いた。
 周りが静かなので、ピアノの音がはっきり聞こえてくる。
「メスゴリラが弾いてるんかな?」
「さあ……」
「メスゴリラやったら、みのるの王将のことなんか、全然気にしてへんことになるな」
「そうやな」
 稔は手のひらを半ズボンにこすりつけて汗を拭いた。左手に持った紙ヒコーキを耳の上に構える。右足を前に出して、塀の上に狙いを定めた。
「王将ドロボー!」
 大声で叫んでから、力いっぱい投げた。
 手から離れた紙ヒコーキはきれいに塀の向こう側へ飛んで行った。
 三カ所で同じように紙ヒコーキを塀の中に飛ばしてから、再び門の前に立った。

 今度は稔が呼び鈴のボタンを押した。
 通用口が乱暴に開いて、さっきの男が怒り顔で出て来た。手に握り潰した紙ヒコーキが数枚ある。
 稔はかすかに息を吐いた。
「こんなことしてると、ロクな大人になれへんぞ」
 男は稔に向かってきた。いきなり髪の毛をつまみ上げられて「痛い!」と叫んだ。
「みのるを放せ!」
 男の脇腹に突進してくる達也が見えた。
 髪の毛を引っ張り上げられて、思わず目を閉じる。男が動くたびに髪の毛が激痛とともに抜けていく。動きが止まったので、目を開けると突き飛ばされたのか達也が尻もちをついていた。
 つま先立ちになって痛みを和らげる。達也ならつかまれている毛が全部抜けても、迷わず目の前にある男の股間を蹴り上げるだろう。
 稔は目を閉じて我慢することしか出来ない。

「もう許してやるから帰れ」
 男が手を放したので、稔は頭を抱えてその場に座り込んだ。
 薄目を開けて達也を探したけど姿は無い。
「もうひとりは逃げよった。友だちを置いて逃げるなんて薄情なヤツや」
「たっちゃんは逃げたりせえへん」
「そんなこと、どっちでもええ。お前も早く帰れ」
 男の靴が反対に向いて離れて行く。
 達也が、どこかから見ているはずだ。稔は下くちびるを噛みしめて涙をくい止めた。
 小百合が姿を見せないのが不思議だった。学校の教室と家では考え方も変わるのかもしれない。このままだと月曜日に学校で顔を合わせた時に、今まで通りに挨拶することも出来なくなる。
 足音がして、男の靴が近づいてきた。稔は広げた両手を頭に押し付けた。
「これでも舐めて帰れ」
 目の前に黄色いキャラメルの箱が差し出された。
 セロファンの封がしてある八粒入りのミルクキャラメルだった。稔がその手を払いのけると、 男の足もとに転がった。
 男の舌打ちが聞こえた。稔が目を上げると、男は苦々しげに眉をひそめている。
「勝手にしろ」
 男はキャラメルをそのままにして通用口に消えて行った。
 稔はキャラメルの箱を拾って塀に投げつけた。箱が塀に当たる音よりも、道に落ちた音の方が強く耳に届く。
 稔はゆっくりと立ち上がった。
「たっちゃん!」
 人通りのない道に向かって大声で呼びかけた。しばらく待っても姿を現さない。このままおとなしく帰ったほうがいいことは分かっていた。七輪で火を起こさないといけない。
 しかし、足を動かせなかった。

「王将泥棒!」
 門に向かって叫んだ。
 通用口は閉ざされたままだ。日の光は少し弱くなり、塀の影が稔の足もとにまでのびている。早く何か楽しいことを考えつかないと、泣き出してしまいそうだ。
 自動車のクラクションの音に稔は我に返った。道の真ん中に立っていたので前に出て自動車の通る道を空けた。
 エンジンの音が後ろを通り過ぎると、稔はひとり取り残されたように佇んでいた。

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