第18話 王将落ち 1

文字数 4,318文字



 昭和三十五年四月。新学期。
 十五組まである四年生のクラス分けで、浦山稔は十組になった。
 四年生からは教室が二階に上がる。稔は初めて二階の教室へ入ったとき、窓から見える景色が大きく広がっていて、稔自身も大きくなったような気がした。
 窓際の席に座ることができたので、勉強もやる気になっていた。

 その日から二週間が経ったいま、稔は空に浮かんでいる薄い雲を眺めながら、大きな溜め息をついている。
 今日のホームルームで、稔の偏食が議題になっているのだ。
 風紀委員の倉井小百合が、「給食の食べ残しをどうしたら無くせるかを、みんなで考える」を提案して、「食べ物の好き嫌いをなくす」になり、それが「浦山くんの偏食をなくす」に変っていった。
 東京から転校してきた小百合は、身体が大きくて二重の目と太い眉毛のはっきりした顔立ちをしている。しばらくの間、他クラスの生徒たちが小百合の様子を見に来ては「東京弁をしゃべってくれや」と勝手なことをいっていた。
 六組になった幼なじみの植野達也が「メスゴリラ」とあだ名をつけている。
 小百合は、クラスの委員を決めるときに、委員長に立候補してクラスの全員を驚かせた。
 担任の豊中先生に「女子は副委員長にしかなれない」と言われて、今度は小百合が驚いていた。
「副委員長は嫌です。それなら、風紀委員に立候補します」
 そう宣言した小百合の迫力にクラスの全員が押し黙ってしまった。
 もともと人気のない風紀委員に誰も立候補しなかったので、小百合が十組の風紀委員になった。そして、十五組ある四年生の風紀委員の集まりで、立候補して風紀委員長になったのだ。

 最初、はっきりとものをいう小百合はクラスで浮いていたが、気の強いわりにはさっぱりとした性格がわかってきて一週間も経たないうちにすっかり馴染んでいた。特に女子たちには人気があった。稔も考えていることを、堂々と口にできる小百合を羨ましいと思っている。
しかし、小百合は初めて同じクラスになったときから、稔がなにをやっても、なにもいわなくても、いちいち突っかかってくるのだ。
月曜日の朝にある一回目のホームルームで、クラス委員長と副委員長が前に立ってクラスの問題について話し合うのだが、小百合が手を上げて「四年生は、もう高学年ですから、一年生や二年生の低学年の見本になるようにしましょう」と発言した。
そして、「鉛筆をナイフで削ったカスを吹き飛ばすことをやめる」にはどうすればいいかを話し合うことを提案した。
その結果、鉛筆の両端を削る貧乏削りが多数決で禁止になった。鉛筆の両端を削ると2本分として使えるのだけれど、芯の先と反対側の端を薄く削った木地面に書いた名前を、貧乏削りすれば削り落とすことができるからだ。つまり、盗んだ鉛筆を使えないようにしたのだ。
消しゴムを削ってハンコを作ることも多数決で禁止になった。
そして、二回目のホームルームがいまなのだ。
稔は、どうして自分の偏食をまわりのみんなで話し合うのか理解できない。
「嫌いなものは、しょうがないやんねえ」
 二人がけの木机の隣に座っている女子が、稔だけに聴こえる声でいった。
「うん」
 稔は小さくうなづく。
 この女子も脱脂粉乳を溶かしたミルクが嫌いで、稔が代わりに飲んでいた。
「どうせ食べへんやろ」
 後ろの席にいるクラスでいちばんいばっている岩田が、つまらなそうにいった。
 稔の肩をエンピツの先で突いて、「食べる気ないやろ。どうせ」と答えのわかっていることを訊いた。
 底意地の悪い男子だけど、稔は嫌いではなかった。いっていることは当たっているのだ。
稔は黙ってそっぽを向いた。
「浦山くんに、偏食する理由を訊いてみればいいと思います」
 小百合がいったので、稔は仕方なく立ち上がった。
「肉を口に入れる前に、どうしても動いてる姿を想像してしまうから」といった。
「哺乳類の肉は、食べたくないってことなのね」
小百合が真っすぐに稔を見つめる。
「クジラの肉は食べる。噛んでも痛そうやないから……」
 口に出してから答えになっていないと気付いて語尾が途切れた。
 三年生の三学期に転校して行った賢一のお陰で、大嫌いだった鯨のたつた揚げは食べることが出来るようになっていた。
 偏食をなくすための方法として色々な意見が出て、副委員長の女子が黒板に箇条書きに並べた。
 我慢して食べる
 汁と一緒に飲み込む
 好きな物と嫌いな物を交互に食べる
 目を閉じて口に入れる
「そろそろ時間も終わりやから、多数決を取ります」
クラス委員長がそれぞれの意見に上げた手を数えて、「好きな物と嫌いな物を交互に食べる」に決まった。
 稔に理解を示していた隣の女子も後ろの男子も手を上げた。
 ここで稔が、「これから頑張って食べるようにします」とか「努力します」とかをいうのを期待しているのに違いない。
 そういうことが出来ると気楽だろうなと稔は思った。それなのに言えないぼくは何なんだ。これから先、いったいどうなってしまうんだろう?
「ぼくのこと、多数決で決めんといて欲しいわ」
 はっきりといいたかったが、稔の口から出たのは消え入りそうな声だった。

 勉強が昼で終わる土曜日は、給食が無いので稔にとっては一番楽しい日だった。
 クラスの全員で椅子を逆さに載せた二人がけの木机を教室の後ろへ運び終えてから、稔はバケツの水に浸した雑巾を絞って教室を出た。

 土曜日は、教室のほかに廊下のガラス窓も掃除するのだ。
 窓枠に立つのが恐いという同級生もいるのだけれど、こそこそ話をしたりふざけあったりしながら教室や廊下を雑巾かけをするよりも、一人で窓拭きをするほうが好きだ。同じ思いなのか、窓掃除をする顔ぶれはだいたい決まっている。
 稔は窓に差す明るい光に目を細めた。窓ガラスの向こうに見えるユーカリの木が、校庭の真ん中に濃い影を落としている。窓を開けて木枠に足をかけたとき、後ろから抱きつかれた。
 こんなことをするのは達也しかいない。
「みのる。ちょっと来いや。矢島が頼みあるいうてんねん」
 達也は同じクラスの矢島と、もう友だちになっている。
 稔は誰とでもうまくやれる達也が羨ましい。矢島のことを、稔はメガネをかけている頭のいいヤツぐらいとしか知らない。一クラス五十人ほどで十五組ある四年生の中で、メガネをかけているのは十人もいなかった。
「ここ拭いてからでええやろ」
「おれが目で磨いたる」
達也は稔の肩に顎を載せたまま顔を左右に動かした。
「見るだけでは、きれいになれへんやろ」
「どうせ雨が降ったら、また汚れるからええんや」
 そういい放つ達也の腕から、稔は抜け出そうとして身体を前に曲げた。さらに強い力で絞めつけられる。身長は稔のほうが高いのだが、達也はがっしりとしていて運動神経がいい。
「そこの男子! 遊んでちゃ駄目でしょ!」
 大きな声で注意されて動きを止めた。風紀委員の小百合の声だとすぐにわかった。
顔を向けると、小百合が廊下の真ん中で仁王立ちしていた。手にブリキのちり取りを握っている。
 小百合は掃除をさぼる男子を見つけると、それで頭を叩くのだ。最初は歯向かっていた男子も、小百合の迫力に負けて、今はおとなしく従うようになっていた。
 達也が稔の身体を放して、小百合に向き合った。
「メスゴリラ、スカートめくったろか」
達也の声で周囲の視線が集まった。
 小百合は、メスゴリラといわれても平気な顔をしている。
「最低ね」
 太い眉毛を寄せていうと、ちり取りを上に構えた。
 太陽の光がちり取りに反射して、銀色のブリキがまぶしく輝く。達也が近づくと、思いっきり振り下ろす気だ。周りに集まって来た同級生たちが、面白がってヤジを飛ばし始めた。
「達ちゃん、やめとき」
 稔が達也の前に身体を入れた。
「この前、男子をグーで殴って、泣かしたんやで」
 耳元に口を近づけて小さな声でいうと、達也の目が大きく見開いた。
「メスゴリラのパンツなんか、頼まれても見たないわ。代わりにおれのパンツ見せたる」
 達也が小百合に尻を突き出して半ズボンを下ろした。指が引っかかったのか、パンツまで脱げて尻が丸出しになった。笑い声が湧き起こる中、百合子がその尻を叩こうとちり取りを振り下ろした。達也の素早い動きで空を切ると、さらに笑い声が広がった。
「あとで矢島と一緒にくるから、帰らんと待っててや」
 半ズボンを上げた達也は、返事も聞かないで逃げて行った。
「浦山くん! さっさと掃除に戻りなさい!」
 小百合に命令されて、稔は窓枠に飛び乗った。

 六組のホームルームが長引いているようだ。誰もいない教室で達也を待っていた稔は、しびれを切らして廊下に出た。窓の外に校門へ向かうランドセルの群れが広がっている。
 廊下の先にある六組へ向かうと、教室から達也が飛び出て来た。その後ろを矢島も付いてくる。
「悪い、悪い」
 達也が稔の前まで来て、肩をポンポンと叩く。
「おばはん先生は、話が長い」
 吐き捨てるようにいった矢島は、メガネをかけているからか大人びた雰囲気を漂わせている。
「ぼくに頼みがあるってなんや?」
 稔が訊くと矢島は、メガネのツルを指でつまんで持ち上げた。
「今日、将棋の勝負をしに松月(しょうげつ)公園へ行くわ」
 細長い目が鋭く光る。
「なんでぼくと、将棋をしたいんや?」
 将棋が強いと思っていない稔は不思議だった。勝つことが多かったけれど、いつも際どい接戦になる。
 達也が矢島の肩に手を置いて口を挟んだ。
「こいつが将棋に負けたことが無いと自慢しよるから、おれがみのるのほうが強いいうたんや」
「ぼく、お母ちゃんの手伝いせなあかんねん」
 母親の文江が、ミシンで肌着のシャツのタグを縫い付ける内職をしている。稔はそのシャツを折りたたむのだ。百枚たたむと一円の小遣いになる。
「みのると勝負をしたいから、大通りを渡って一人でくるいうてんねん。たいした奴やで」
 稔たちがいつも遊んでいる松月公園と矢島が遊ぶ場所は、大通りが境界線になっていた。その線を越えるには勇気を必要とする。
「すぐ、行かれへんわ」
 稔がいうと達也が肩に腕を回して引き寄せた。
「矢島の家にテレビがあるんや」耳元で囁いてから、声を大きくした。
「それやったら二時に集まろ。二時の対決や!」
  達也に押し切られて、稔は気乗りしないままうなずいてしまった。
「律ちゃんが一人で帰ってるわ」
 達也が窓の外を指した。
稔も校庭に、五年生の金田律子の姿を見つけた。右足を少し引きずって歩いている律子を、みんなが追い越していく。
 稔が走りだすと、達也も追いかけて来た。
「二時に行くからな!」
 矢島の声が廊下に響いた。


王将落ち 2 に続く。

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