第24話 王将落ち 7
文字数 1,914文字
家に帰って七輪に火を起こし終わると、稔は国道を渡って線路に向かって立った。
遠くに聞こえる京阪電車を待つのだ。
すぐ空気を震わせる音と共に、特急電車が近づいてきた。
目の前に来た時、轟音の中で「メスゴリラのあほおぉ!」「じじいはどろぼーやあぁ!」と叫んだ。特急電車が吐き出した言葉を運んでくれる。
通過する電車の風を全身に浴びた稔は、三角山の向こう側の山なみに特急電車が消えるまで見つめていた。
家の前まで戻って、玄関の横に置いてある木製のゴミ箱の上に座った。
家の中からはミシンの代わりに、文江が台所で動いている音が聴こえてくる。
稔は向かいの家の増井隆司が出てくるのを待った。なかなか出てこないので、もう仕事に行ってしまったのかと思った。
あきらめて中に入ろうとした時、増井の家の引き戸が開いた。
「みのる。悪さして中に入れてもらえへんのか?」
作業服を着た増井が白い歯を見せた。
「違うわ。たかし兄ちゃんを待ってたんや」
稔が駈け寄ると、引き戸を閉めた増井は迷惑そうな顔をした。構わずに稔は喋り始めた。
老人と将棋をしたこと。王将の駒が無くなったこと。老人が盗ったと思って家まで追いかけたこと。小百合の大きな家の庭に紙ヒコーキを投げ入れたこと。暴力男のこと。小百合の母親と文江がいい争いをしたこと。それから文江が千円札を返したことを一気に話した。
稔が感じている追い詰められた思いを、聞いてもらうとそれだけで気持ちが少し落ち着いた。
「みのるは頭がええな」
増井に意外なことをいわれて、稔は戸惑った。
「みのるの話は、すっと頭に入るわ。理路整然っていう四文字熟語、知ってるか?」
「まだ四年生や。そんなん知らんわ」
「そうか。そしたら、仕事に遅れるからもう行くわ」
「教えて欲しいことがあるんや」
「今度、暇なときにでも教えてやるわ」
増井が稔の前から立ち去ろうとした時、増井の家の引き戸が少し開いた。
「もっと話を聞いてあげたらどうや」
増井の母親の声がした。
「はい、はい、はい」
と返事をしただけで、そのあとにくっくっくと笑わなかった。
「まあええわ。それで何を教えて欲しいんや」
「風紀委員長を辞めろっていったこと、月曜日に謝ったほうがええのかな?」
「あんなぁ、みのる。ソビエトのレーニンはんが『金持ちと詐欺師は、メダルの表裏の違いしかない』いうたはんねん」
「詐欺師って、嘘をついて人を騙す悪いやつやろ。金持ちはみんな悪者ってことなんか?」
「そう考えたらええねん。そやから小百合って子は、自分が気付いてないけど悪党の仲間になってしまってるんや。元々、風紀委員長をすることがおかしいんやから、みのるは真実をその子にいったんや」
「でも、ぼくの知ってるおっちゃんは、嘘つきやけど貧乏やで」
稔は律子の父親のことを思い浮かべた。
「金持ちはみんな詐欺師やけど、詐欺師がみんな金持ちってわけや無いんや。貧乏な人が騙すのは仕方ないことが多いんや」
「ようわかれへんわ」
「僕が仕事をして社長を儲けさせても、取り分は社長の方がものすごく多いんや。搾取っていってな。今の社会の仕組みがそうなってんねん」
「たかし兄ちゃんは、騙されてるのがわかっているのに仕事しに行くんか?」
増井は答えない。
稔は、ツクシ採りに行った時に、文江が「お父ちゃんはお金を稼ぐために働くんやから、厭になる時もあるんや」といっていたことを思い出していた。
「お父ちゃんが、きうつ(気鬱)になるのも、騙されているのが嫌になるからなんかな」
毎晩、仏像を彫っているのも関係があるのかなと思った。
「そろそろ仕事に行かんと、ほんまに遅れるわ」
増井が小走りに路地を抜けて行った。
*
夕食を済ませると文江が、いつものように横に濃紺のピース缶と灰皿を寛之の前に置いた。寛之が煙草を吸い出すと、文江がいつもは煙管(きせる)に煙草を差し入れるのだけれど、食器を片付けに立った。
寛之は煙草を二本吸い終わると、横の座り机で彫刻を始めるので、文江が話すのは今しかない。
稔は千円に執着していることを寛之が知ると怒られることはわかっていたので、このままで終わって欲しいと願っていた。
寛之が二本目の煙草を吸い終わる前に、文江が台所から戻ってきた。
「お父ちゃん」
文江がいい淀んでいたことを話すのだと、稔は身構えた。
「家にある将棋を稔に貸してあげて欲しいんやけど……。明日、大事な勝負があるんやて」
稔は文江の言葉が嬉しくて目を開けた。しかし、寛之が正面から見つめているので、さっきよりも緊張した。
「子どもの遊びに使わせることは出来へん」
そういうと寛之は、彫刻をするために横を向いた。
王将落ち 8 に続く。