第91話 いびつな夏の月 15

文字数 3,237文字

 夕方、稔は照代と一緒に再びバス通り沿いの煙草屋へ行った。電話はまた繋がらない。稔は相手の家が、わざと意地悪をしているのではないかとさえ思った。
 工場から帰って来た寛之は、明美のことを訊かなかった。何も気にしていないようだった。
 稔は夕食の後片付けを終えると、三畳間の隅に客用の座布団を二つ用意した。もうすぐ隣の二人がやってくると思うと落ち着かない。不安と恐怖が交互に襲ってくる。
「お邪魔します」
 稔が引き戸を開けると、後藤一人の顔しかない。
「隣の照代に面倒を見てもろてる後藤という者ですが、上がらせてもらってよろしいですか?」
 机の前に座ったまま、ちらりと玄関口を見た寛之は、大義そうに立ち上がると後藤を三畳間に招き入れた。
 ミシン台の椅子に腰をかけた稔からは、後藤の後頭部と父親の顔が見える。
「何のご用ですか?」
「この度は明美のことでご迷惑をおかけして、申しわけありませんでした」
 そこまで言うと深々と頭を下げた。
「実は明美が妙なことを言い出しまして、そのことで相談があるんですわ」
「妙なことというのは、昨夜のことですか?」
 寛之がメガネのフレームに指をかけた。

「いやあ、ご主人の方から切り出してくれはると、話が早く済みますわ」
「こっちは、食事のことでお世話になっているので預かっただけです。美人局(つつもたせ)の真似事はやめてもらえませんか」
「美人局とは、わしも軽く見られたもんやな」
「あなたのほうこそ、知りもしない私のことを軽く見たので、こうしてここにいるのではないですか」
 二人はしばらく睨み合ったままでいた。固唾を飲んで今までのやり取りを聞いていた稔は、これからチャンバラ映画の真剣勝負が始まると思った。

 レールを軋む京阪電車の音がいつもより大きく聴こえる。
 後藤が沈黙を破った。
「おたくさんの真っすぐな目を見て、よう分かりました。いやあ、邪推したわしが恥ずかしいですわ」
 稔は、これで終わると思ってほっとした。
「見事な彫刻をしてはりますな。若い時から修練を積んではるんですか?」
 後藤の頭が座り机に向いていた。
「満州から引き揚げて……、見様見真似でやってます」
「いつの間にか、もう十六年も経ちましたな。長いような短いような」
「その通りですね」
「これからも、彫刻を続けていくつもりですか?」
「どういう意味ですか?」
「わしはシベリアで鍛えられて帰って来たんですが、弟は戦争から戻ると、人が違ったようになりました。あんたさんのことを目にして、他人事とは思えなくて」
「あなたには、関係の無いことです」
「ぼんの将来のことを考えて、戦争であったことは、もう過ぎたこととして忘れてもええんと違いますか」
「お引き取りください」
 後藤はまだ何か話そうとする様子なので、稔は腹立たしくなった。それには言い知れない一種の不安も伴っていた。
「いやぁ、余計なことを言いましたな」
 ゆっくりと立ち上がった後藤は、稔の横を通る時に声をかけてきた。
「ぼん、要らん心配せんでもええからな。お父さんは間違いなんかせん人や」
 余計なことばかり言わないで欲しかった。最後の言葉で稔が言いつけたと分かってしまう。玄関を出て行く後藤の後ろ姿を恨めしく見送った。

 稔は寛之の目を避けるために、文江の座布団に座った。
「何があったんだ?」
 背中を向いている寛之の静かな声が、かえって厳しく問い詰められているように感じた。
「ラジオが聴こえるようになった」
 稔は考えるよりも先に口が動いてしまった。
 頭を斜め上に傾けてラジオを見た寛之は、身体の向きを変えた。寛之の目がメガネの奥で鋭く光る。稔は心の奥まで見透かされている気になった。
「誰に直してもらった?」
「たかし兄ちゃんに教えてもらった。真空管やから叩いたら音が出るようになったわ」
 明美の名前を出すのはまずいと思って嘘を重ねる。
「それはよかった」感情の無い声だった。
 寛之が背中を向けたので、身動(みじろ)ぎが出来ないでいた稔は顔を上げた。肩の力を抜いて、しばらく父親の大きな背中を眺めていた。
 母親は夕食が終わってミシンに戻るわずかの時間にぼくと話をしながらも時々、父親に目をやっていた。母親はずっとこの背中に喋っていたのだと思った。
 すると、怒りのようなものがふつふつと湧き出てきた。

 父親がすぐにラジオを修理すればよかったんだ。明美が短い時間で簡単に直したことをどうしてやらなかったんだ。喉元まで怒りが上がってくる。
「お母ちゃんに謝って、連れ戻して欲しいわ」
 口から出てきたのは怒りの言葉ではなく、頼み事だった。
 しかし、ノミを打つ音しか返ってこない。
「お願いや。お母ちゃん迎えに行ってぇな」
 稔はショートピースの缶を取って握りしめた。
「迎えに行け!」
 投げつけた。

 寛之の背に当たった缶はぽとりと落ちて、畳に転がった。寛之が身体をねじって、稔に顔を向けた。
「親に向かって何をする!」
 大きな声で一喝されて、稔は飛び上がった。
 寛之が腰を浮かそうとしたので、後ずさりしながら「悪いのは、お父ちゃんや!」と叫んで、便所に逃げ込んだ。
 しばらくじっとしていたが、寛之が近付いてくる足音がしない。恐る恐る縁側まで進んで部屋の中を覗いた。

 寛之の姿が消えていた。
 足が震えてきた。
 棄てられたのだ。
 稔は心の不安と動揺の原因が、形として明らかになったと思った。

 小さい頃から寛之に嫌われていることは判っていたので、いつも怯えていた。
 家族三人で出かけた時は、前を歩く寛之の手を握らないと置き去りにされると思いながらも掴むことは出来ないでいた。
 文江の手を強く握りしめて後ろを付いて歩くしかなかった。

 その文江も今は居ない。
「みのるちゃんは、お母ちゃんに棄てられたんやで」
 明美の声も耳に残っている。
 稔は居ても立っても居られなくて外へ飛び出した。

 驚いたことに、照代と後藤が待ち受けていた。
 数人の近所の人の影もあった。
「大きな声がしたんでびっくりしたわ」
 照代が続けた。「旦那さんとも、喧嘩になりそうやったからひやひやしたわ」
 寛之は、止めようとした後藤を押しのけて、どこかへ行ってしまったらしい。
「力ずくで止めた方がよかったかもしれんけどな」
「きっと、気を鎮めに行きはったんや。あたしのとこで待てばええわ」
 照代が稔の肩に手を置いた。
「ぼくの家で待つ」
「そうかぁ、ネズミに引かれんように気いつけや」
 照代の言葉に稔はうなずいて、引き戸を閉めた。

 部屋に上がると自分がずっと過ごしていた家なのに、見馴れない場所に思えてどきっとした。
 畳に転がっていたショートピースの缶を拾い上げて、卓袱台の上へ置くとカタッと音が大きく響く。独りきりになった部屋は、稔が唾を飲み込む音まではっきりと聞こえるほど深く静まりかえっていた。
 いつもは時間が気づかないうちにさっと駆け抜けていくのに、いまはのろのろとしか動かない。柱時計の秒針の微かな音を聴いていると、何かが息を潜めているようで背中が冷え冷えとした。

 今にも天井から巨大なネズミが落ちてきて「心をみんな食べてしまうぞ」と、嚙みついてくるのではないかと怯えた。
 背後に動く気配を感じた稔は、ぎょっとして振り向いた。無花果の木が揺らいで、夜の空気が吹き込んできた。
 稔はショートピース缶に、じっと視線を向けて頬の内側を奥歯で噛んだ。
 達也の家には行けない。増井も工場に行って今はいない。
 自分が追い出した明美に会いたいと思った。一緒にいると息苦しかったけれど、無条件で自分を包んでくれたといっていい。
 稔は、映画の券とジュースのフタを手に持って外に出た。

 電信柱から垂れ下がっている傘のついた裸電球の光に、虫が集まって飛び交っている。
 空に貼り付いている月は満月のように見えたが、明美が言ったようにまだいびつな形をしていた。
 暑い夜のはずなのに身震いをした。
 身体中の不安を吐き出して歩き出す。


いびつな夏の月 16 に続く。
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