38 『夜が匂う夏』 初稿 6  

文字数 3,507文字


 稔は夏休み生活表のカレンダーに四つ目の×を書いた。
広告紙の裏に、てるよおばちゃんの友だちに、映画つれてってもらいます。と書いて、ちゃぶ台に置いた。
廊下の金ダライに日向水を作るために水を張ってから、箪笥の引き出しをあけて、よそ行きの服を探した。
明美が玄関に姿を見せるのに時間がかかった。
「お待たせ」
裾のふわっと広がった白いワンピースを着ている。稔も半袖の服と靴下を履いていた。
栄町の映画館は、駅前の踏切を渡った商店街の中にある。明美と手をつないで線路に沿って国道を歩き始める。なんだか照れくさくて、ぎこちない動きになる。
雪子に見つからないようにと願いながら道を急いだ。面倒を見ることが出来ないのを、うしろめたく思った。
すれ違う人が、ふたりを見比べるように、立ち止まったり振り返ったりする。稔は気恥ずかしいような誇らしいような気持ちだった。日差しの中で見る明美は、もっと若いように思えた。
脇道に入ったところで、子どもたちで人だかりが出来ていた。リヤカーを引きながら、たこ焼きと駄菓子を売る『たこじい』が真ん中にいた。
「たこ焼き、食べる?」
明美が、稔の顔を見た。
割り箸に三個刺して十円だ。
「タコは嫌いや。いつも、たこの代わりにこんにゃくが入っている焼き玉を食べてるねん。一個一円や」
「こんにゃくが好きなんか」
「嫌いやから、吐き出してるわ」
「それやったら、メリケン粉を食べてるだけやな」
電車が横を通過する度に、風に吹かれて明美のワンピースが稔の身体にまとわり付く。
ようやく駅前の踏切まで来た。
 稔はこの踏切を渡って栄町へ行ったことは数えるぐらいしかない。
特に裏通りに広がる歓楽街には、子どもが行く場所ではないので、近寄らないようにと注意されていた。
稔は踏切を渡るだけで緊張していた。
商店街の入口にある銀行のコンクリート壁に、太陽の光がまぶしいほど照りかえっていた。アーケードに入ると薄暗く感じた。まばらな人影が動いている。
店と店のあいだに空き地があって、有刺鉄線が垂れ下がっていた。『入るな!』の看板がぶら下がっている。
アーケードの切れ目から漏れる日差しが、白いチリをきらきらと輝かせていた。
映画館の看板に、裸の女の人が胸を両手で隠している姿が描かれていた。大人向けの映画をしていたので、映画館には入らなかった。
稔が気落ちしているので、明美がアイスを買ってくれた。明美は黄色いレモン味を選んだ。稔はイチゴ味にした。
「ひと口、食べてええわ」
明美が差し出したレモン味のアイスの先に、口紅の赤い色がついていた。
稔は「要らない」と断った。
「せっかく出てきたんやさかい稔ちゃんの好きな物を食べて帰ろうか」
「ぼく、何にも要らんわ。嫌いな物ばっかりや」
「家族で、お出かけして食べることあるやろ。その時は、何を食べてるの?」
「ざるそばと、うなぎ丼」
「うなぎは好きなんや」
稔は首を横に振った。
「気持ち悪いからお父ちゃんに上げる。タレのかかったご飯を食べるんや」
「なんや美味しい物、食べれへんからえらい損をしてるな」
「そんなことないわ。嫌いな物、食べるほうが損やわ」
商店街に戻って、食べ物屋を探しながらぶらぶらと歩く。トンカツ屋、中華料理の次にお好み焼きの店があった。
「お好み焼きは食べられるか?」
「卵は好きや」
稔が答えると、のれんをくぐって店の中に入った。
「豚玉と、もう一枚は卵だけでええわ」
明美は注文すると、ハンドバックからタバコを取り出した。
「面白いもの見せてあげるわ」
右手にマッチ箱を持つと、右指だけで器用にマッチ棒を一般抜き出した。中指と人差指に挟んだマッチ棒の赤い端を、親指で擦り面に押し付けると素早く弾いて火をつけた。
「うちの卵もあげるわ」
お店の人が運んで来た具の卵を稔の器に移した。
鉄板が熱くなったので、明美がかき混ぜた具をふたつ並べた。焼けるのを待つ間、明美はテーブルの横に置いてあるソースを器ごと持った。刷毛にたっぷりとソースを含ませると鉄板の上に浮かせた。
「ソース焼きや」
ぽたりとソースを落とした。じゅわじゅわっと音と一緒に香ばしい香りが鼻をつく。
「幸夫と二人でお好み焼きを一枚だけ頼んで、ソース焼きを作ってよく食べたわ」
稔のお好み焼きは、卵をふたつも入っているのでいつもより黄色くなっている。
大通りと直角に交わる格好で、細い路地が飲食店街となって奥に延びていた。
「せっかくここまできたんやから、ちょっとだけお店に寄ってみたいわ。稔ちゃん、ええやろ」
明美に引っ張られるようにして路地に入る。一瞬、立ち止まり、足元に続く先へと視線を走らせた。
日陰で寝そべっていた野良犬と目が合った。
明美がシーッといって手で追い払うと、視界の下のほうを横切っていった。
稔はその後ろ姿を見て、犬の肉を食べるのは嘘だと分かって少し安心した。
昼間から店を開けている呑み屋のそばを通りかかった。店内からはお酒を飲んでいる人の声と、スピーカーの割れた音楽が聞こえてきた。
明美は、さらに細い路地の中へ入っていく。
鼻水を垂らした子がひとりで遊んでいる。もう、自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。
日陰になった路地の暗がりから、黄ばんだ下着の上にタオルを巻いた老人がふっと出てきた。
狭い道は乾いていて、歩くたびに舞い上がる埃が空気に色をつけていた。
やっと、目的の店に着いたようだ。
スナックギンザと書いた看板の前で止まった。
店の前には木の箱が乱雑に置かれている。色々な瓶がひとところにまとめられたり、一列に並べられたりしていた。昼なので閉まっているようだ。
風が吹くとむっと、鼻をつく臭いがした。
「変なにおいがするで」
「ほんまやな。すぐに来るから、ここで待っていて」
明美は人がひとり通れるぐらいの狭い道に姿を消した。
曇りガラスに稔の影が映っている。
路地を歩く騒がしい音と子ども達の声が近づいて来た。稔は荷物の陰にもぐり込んだ。息を止めると、心臓が大きな音を立てる。
三人の男の子が、大きな声で何かを喋りながら通り過ぎた。足音が止まったので、荷物の陰から顔を出して様子をうかがう。 
立ち止まってこちらを向いている背の高い子と目が逢った。すぐに顔を引っ込めようとしたけど、固まって動けない。
三人はくすくすと意味ありげに笑いながら、稔のほうへ戻って来た。稔は作り笑いを浮かべた。
「どこから来た?」
「正月公園のほう」
指で示めそうとしたけど、方向が分からない。場所を説明しようとすると、ばかにしたような目つきをされた。
「おまえ、なんでここにいる?」
「待ってるように、言われたんや」
稔の手のひらは両方とも汗で濡れていた。
背の高い子が肩に腕を回そうとしてきた。身体をよじって避けた。
「なにビクついてんねん」
頬を叩かれた。音がひりつくように耳の中に響く。
これは、相当ヤバイ状況だと思うと、一気に血の気が引いた。
「時間よ止まれ!」
反射的に声を出した。
三人が動きを止める。背の高い子がわざとらしく、にやりと笑った。
「そんなわけ、無いやろ」
乱暴に稔の腰に腕を回して、左右に揺すった。その親しげな仕草は急に変わって、稔の首をがっちりと締め付けた。そして握りしめたこぶしを、稔の目の前に突き出した。思った以上に大きな手だった。血管が浮いている。どの指も硬くひび割れて、長く伸びた爪にまで黒い汚れが染みこんでいる。
稔は首を動かそうとしたけど、びくともしなかった。きっと殴られて、ひどい目に合わされると思った。達也に肘で小突かれるのとは、わけが違うだろう。泣くのだけは嫌だと下くちびるを噛み締めた。
鼻先を指で弾かれた。背の高い子は笑い声を上げながら、稔の鼻をぎゅっとつまんだ。
呼吸がとまり、稔は口をあけてあえいだ。指をねじって離されると、地面に赤い点が落ちた。
「何してるんや!」
明美の声がした。
首を締めている腕の力が緩む。稔は勢いよく身体をひねって首を抜いた。 
三人が明美を囲んだ。
「まだ皮を被ってるくせに、うちに向かってくるなんて生意気なんや!」
明美が近くにあったビールビンを取って、思い切り振り回す。慌てて避けたので、誰にも当たらなかったけど、ブーンと風を切る音がした。
「淫売なんか、放っとこ」
背の高い子が、そう言い捨てると逃げるように走って行った。
「大丈夫?」
近付いてこようとした明美を、稔は手で止めた。
「白い服に血がつくわ」
顔を上にして鼻血が落ちないようにした。
雲がまぶしいほど白かった。
明美が、ちり紙を両方の鼻の穴に詰めてくれた。
「あんな時は、かかとで足の甲を思い切り踏みつけるか、金玉を握り潰したらええわ。でも、稔ちゃんは、そんなこと出来へんな」
稔は力なくうなずいた。
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