第34話 木枯らし 3

文字数 3,643文字



 稔は昼ごはんをたべると、すぐに五円玉を握りしめて、バス通りの貸本屋に行った。
 ガラス戸を開けると、鈴の音が大きく鳴った。中に入っても風を防ぐだけで寒さは外と一緒だ。狭い店内の真ん中を背中合わせの本棚で仕切ってあり、壁際の本棚と合わせて四面が本に埋まっている。
 奥の部屋の障子戸が開いて店主の大沢が顔を覗かせた。
「今日も来たんか」
 大沢は客かいるときは、部屋の上がり口にあるコタツに入って店番をするのだが、誰も居ないときは障子を閉めて内職をしていた。
 稔は奥までいって、小さなコタツのテーブルに五円玉を置いた。
 
 マンガは、借りたその日に返すと五円、翌日だと十円になる。稔は大沢と交渉して、五円で二冊を店の中で読むことができるようにしたのだ。
「『忍者武芸帳』は戻ってきてへんか?」
 稔は白土三平の『忍者武芸帳・影丸伝』に夢中になっている。
 昭和三十四年から出版されている長編の貸本マンガで、人気があってなかなか読むことができない。何巻まで続くかわからないが、二巻まで読んでいるので早く続きが読みたいのだ。
 稔の今の夢は、『忍者武芸帳』が完結した時に、全てを借りて読むことだった。
「夕べ遅く帰って、昼前に出ていった。人気があるからすぐ動きよる」
「置いといて欲しかったな」
「お金を払ってくれるんやったら、取り置きしとくけどな」
 そういうと大沢は、背を向けて内職仕事に戻った。

 本棚の下段に子ども用の活字本、中段にマンガ本、上段に大人用の小説とそれぞれわけて並べてある。コンンクリートの床には、古いマンガ雑誌が板の上に積み上げてある。月刊誌『少年』『ぼくら』『冒険王』『少年クラブ』『少女クラブ』『りぼん』などで、週月誌は『少年サンデー』『少年マガジン』などが古本として売っている。

 貸本マンガの棚には、目につくところに人気のある手塚治虫の『0マン(ぜろまん)』『ジャングル大帝』、前谷惟光『ロボット三等兵』、武内つなよし『赤銅鈴之助』、寺田ヒロオ『背番号0『影』『街』には、さいとうたかを、石川フミヤス、K・元美津、山森ススム、佐藤まさあきなどが描いていた。

 早くマンガを読んで公園へいかないといけないことはよくわかっているのだが、なかなか決められない。
 稔はさいとうたかをの『台風五郎』シリーズが載っている『影』と小島剛夕の〈大ロマンシリーズ〉『剣は知っていた』の二冊を選んだ。ひばりコミックスの〈大ロマンシリーズ〉『恋の新撰組』『春秋走馬燈』は前に読んでいた。
 ズッククツを脱いで部屋に上がると、こたつに足を入れた。冷え切った身体を縮めてマンガを読み始めると、寒さは気にならなくなった。

 鈴の音で顔を上げる。稔がコタツに入ってマンガを読むあいだは、店番の代わりもすることになっている。三人の男子が入ってきたが、顔見知りなので万引きの心配はないので目をマンガに戻した。
 三人の男子がそれぞれ一冊を借りた。大沢が返す日を訊いて、大学ノートに名前と日付けを記入してから、マンガ本の背表紙の裏に張り付けてある紙にも日付けを書いて渡した。
 返すのが明日なので、三人はマンガ本を回し読みするのだろう。
 稔もそういう友だちが欲しいとは思っているのだが、なかなか出来ないでいた。達也でさえ、稔が好むマンガには興味がないのだ。
 わちさんぺいの『火星ちゃん』が好きな達也は、白土三平と林家三平と三人が同じ「さんぺい」なので、「何か関係があるんかな?」と本気で考えていた。

 一冊目のマンガを半分ぐらい読んだところで、鈴の音が響いた。
 顔をあげると、達也が飛び込んできた。
「どうしたんや、達ちゃん」
「雪子が、律っちゃんの手紙を持って来たんや」
「えっ!」
「みのるを喜ばせたろと思って、走って来たわ。紙芝居の絵が、よかったんと違うか」
 達也が稔の前に赤色の折り紙を置いた。
 長方形に折って端を折り込んである。
 折り紙を開けて、裏に書いてある手紙を読む。
『雪子が梅田に連れて行かれる。
 お願い、止めて欲しい。』
 急いで書いたみたいで文字が躍っている。
「雪子は?」
「みのるにすぐ見せよと思って、長沢に預けて来たわ」
「家に帰らせたらあかん」
 稔はズッククツをはいて大沢に声をかけた。
「このマンガ、途中までしか読んでへん。ここに置いといて欲しいんやけど」
「あんたの用事で帰るんやから、それはでけへんな。一冊分は今度来た時に読ませたるわ」
 稔は最期のページを見開いて目に焼き付けた。

 公園まで走ると、長沢が雪子は家へ帰ったといった。
「手紙になんて書いてあったんや」
 長沢に応えないで、稔は達也と慌てて家を見張りに行った。
 自転車に乗って長沢も路地の入口までついてきた。
「なんで教えてくれへんのや」
 稔が元の形に折った折り紙を渡すと、読み終わった長沢が訊いてきた。
「ぼくらだけで、梅田に行かせへんことなんかできるんか?」
 稔もどうすれば止めることが出来るのか思いつかない。
「長沢が雪子を、家に帰せへんかったらよかったんや」
 達也がいらついた声を出した。
「そんなん、なにも知らんかったからムリやろ」
「どこまでも付いていって、絶対に止めるわ」
 稔は自分にいい聞かすように口にした。
「電車に乗られたら、お金を持ってへんと付いていかれへんで」
 長沢にいわれて、そのことに気付いた稔は達也に顔を向けた。
「ぼく、家からお金を持ってくるわ」

稔は玄関を開けるなり文江にいった。
「ぼくの貯めていたお金を、全部出して!」
「急にどうしたんや」
「雪子が梅田に連れて行かれるんや」
「それで、どうしようというんや」
「ええから、お金を渡して!」
「電車に乗って、付いていくつもりなんか」
「お母ちゃんが何もせえへんかったから、律ちゃんが歩かれへんようになったんや」
「……」
「早く、出してくれ!」
 悲鳴のような声になった。

 文江がミシンの電源スイッチを切って立ち上がった。
「お母ちゃんも行くわ」
そういうと急いで奥の部屋に姿を消した。
「はよ、してや!」
 急き立てる声が明るくなった。稔は文江が来てくれることを、心のどこかで望んでいたのだ。
 表で待っていると、自転車に乗った長沢が、血相を変えてやってきた。
「駅へ行ったわ。二人で止められへんかった」
 そこに、オーバーを着た文江が、稔の青いマフラーを持って出て来た。
「おばちゃんも一緒に行きはるんか?」
「うん、そうやねん」
 稔は誇らし気に応えた。
「達っちゃんに知らせに行くわ」
 長沢は、電池式のブザーを何度も鳴らしてから、方向転換した。
 文江から受け取ったマフラーを首に巻いた稔は、台所の出窓の下に並べて置いてある自転車の カバーを外した。
「雪子の足を考えたら間に合うと思うけど、ぼくらも自転車で行くほうがええで」
* 
 風に逆らうように、自転車を力強く漕いでいる文江の背中に、稔は顔を強く押し付けた。
 胸の中にたまっていた文江への不満が一気に消え、稔の気持ちは弾んでさえいる。腰に回している両手に力をいれて、さらに顔を押し付けた。
 体温が伝わらないのがもどかしい。押し付けた顔をグリグリと動かす。抱き付いている稔は逆に、抱きしめられているように感じて涙ぐんだ。
「あそこにいるわ」
 文江の声に背中から顔を離した稔は、身体を曲げて前を見た。
 雪子が裕二に手を引かれて歩いている。達也と長沢の姿もあった。
「おおい!」
 思わず叫ぶと、気づいた達也が両手を大きく振った。
 雪子も振り向いて手を上げている。
文江が裕二たちを追い越してからブレーキをかけて、道を塞ぐように自転車を停めた。
 稔は自転車から飛び降りて、雪子に駈け寄った。
「もう、大丈夫や」
「何をいうとんねん」 
 舌打ちをした裕二の前に、文江が立ちはだかった。
「金田さん、お願いがあります」
「お願いしたいんは、こっちや。ヤブ蚊みたいにまとわりついてうるさいガキたちを、連れて帰ってんか」
「雪子ちゃんを、梅田へ連れていかないでください」
「自分の子どもを、どこに連れていこうが勝手やろ。他人にとやかくいわれる筋合いはない」
「それを承知でいうてるのは、金田さんもわかってはるでしょ」
 裕二はまた舌打ちをした。
「雪子! おまえが梅田へ行くいうたんか」
「いうてへん」
「それやったら、何でみんなが知ってるんや」
「……お姉ちゃんが、みのるくんにてがみかきはった」
 裕二が稔の顔を見ていまいましげに舌打ちをした。
「帰ったら、どつき回したる」
「そんなことをしはったら、警察へ届けますから」
「何や、冗談も通じへんのか」
「子どもを殴るなんて、冗談でもいわないでください」
 裕二が笑った。不揃いな歯のあいだから、空気が漏れる耳障りな音がした。
「雪子に訊いてみるから、よう聞いとけ」
 腰を曲げた裕二は、雪子に顔を寄せた。
「雪子は、ここから帰りたいんか、それとも梅田へ行きたいか?」
「うち、おとーちゃんとうめだへいきたい」
 雪子の表情に、無理にいわされている様子はなかった。


木枯らし 4 に続く。

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