第63話 ニセ百円札 22

文字数 1,701文字


 三時間目の自習が終って、廊下の窓から覗くとまだ青い自動車が停まっていた。
 稔は廊下を走り、階段をひとつ飛ばしで駈け下りた。
 上履を乱暴に脱ぎ捨て、履き替えたクツもかかとを入れないまま昇降口を出た。
 すでに数人の生徒たちが、自動車を取り巻いている。
 昇降口の方からざわめきが聴こえてきた。
 稔が目を向けると、着物姿の三人が出てくるところだった。目があったので、頭を下げると、三人も挨拶を返してきた。
 三人と知り合いだということだけで、誇らしい気持ちになる。何よりも母親がそのうちの一人なのだ。
「いったい、どうしたんや?」
 稔が、文江に近づいて訊いた。
「デモンストレーションとかいうんやて、言葉でいうよりも、姿かたちで心はひとつやと、わからすためや」
「着物は?」
「みんな、あの春香さんが用意してくれはったんや。賢い人やな」
 自動車の傍にいる華房のおばさんを見ると、達也が得意そうな顔で何かを喋っている。
「はるかって名前なんか?」
「そうや、春が香ると書くんや。名前からして、春が匂い立つような人やわ」
 もう春香は、文江の心を掴んでいる。華房のいう通りだと思った。
「おばちゃん、きれいやわ」
 達也が稔の横にくると、すぐに行った。
 先にいわれてしまったが、稔も口に出した。
「きれいやわ、お母ちゃん」
「お父ちゃんにも、見てもらいたいけど、すぐ着替えなあかんねん」
「ぼくがしっかり見て覚えておくわ」
「なんか、恥ずかしくなってきたわ」
 そういいながらも、文江はその場でゆっくりと一回転した。

 三人が自動車の中に消えたので、生徒たちがパラパラと立ち去って行く。
「華房も見てるわ」
 達也が二階の三年生の教室を見上げていった。
 稔が顔を上げると、廊下から華房が見下ろしていた。
「みのるみたいに、甘えたらええのにな」
 達也がつぶやくようにいった。
「ぼく、甘えたやないわ」
 稔は強くいった。
「華房さんのおばちゃんの名前、わかったけど、教えてあげへんわ」
「悪かった。謝るから、教えてくれ」
「ほんまに悪いと思っているんか」
「ほんまのこといって、悪いとおもってるわ」
「絶対に、教えたれへん」
 稔は達也に身体をぶつけてから、昇降口へ向かった。

 その日の給食のおかずは、稔の大嫌いな鯨の竜田揚げだ。
 早く帰って文江の話を聞きたいと思うのに、どうしても食べることが出来ない。
 食べ終わった者から校庭へ遊びにいくので、人数が少なくなった教室に、稔は机の上のアルマイトの食器と向き合っていた。
 東野先生はいつもは、職員室に戻るのに教師机から目を光らせている。
 校長室から戻ってきた東野先生は、不機嫌を隠さなかった。
 稔に直接は当たることはなかったのだが、クラスの全員が原因の元だとわかっているので、居心地が悪かった。
「みのる。やっぱり、おかずを残してるんか」
 達也が、笑いながら教室に入って来た。
 東野先生の視線を塞ぐように、稔の机の前に立った。
「先生も、職員室へ戻られへんやろ。迷惑かけたらアカンぞ」
 そういいながら、クジラの竜田揚げを手に取って噛り付いた。
 稔は驚いたが、達也の考えがわかって黙った。
 一緒に帰って。文江の話を聞きたいのだ。
 達也がひと口食べ終わるたびに、稔の悪いところを言い立てた。
「もう、やめて欲しいわ」
 思わず口に出た。
「そうや、その調子で最後まで食べたら、黙ってやるわ」
 いい終わると、最後のひと口を詰め込んだ。
「わかったわ。食べたらええんやろ」
 稔も調子を合わせて、食べている真似をした。
「死ぬ気になったら、食べられるやろ」
 食べ終わった達也は、指先を舐めながらいった。
「先生、俺が頑張って食べさしました」
 後ろを振り向いていった。
「それで、華房の伯母さんの名前は?」
 真賀をで聴いてきたので、答えるしかなかった。
「春が香ると書いて、春香さんや」
「春香さんか、ええ名前やな」
 うなづくと、達也は再び、東野先生に向き直した。
「これからも、困ったらおれを呼んでください。稔に食べさせるから」
 東野先生は何かを感じたようだったが、教室を出て行く達也を唇を歪ませて見送るだけだった。  

 ニセ百円札 23 に突く。
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