27 2013・12・20(金) 最終稿 『無花果』 1   

文字数 2,128文字


 昭和三十五年。八月二十八日。四年十二組。浦山稔。画用紙に糊付けしてあるワラ半紙の空欄を埋めた稔は、机にしているみかんの木箱の上に2Bの鉛筆を転がした。
「あとは題名や」
 画用紙を表にして、画板と一緒に持ちあげた。
 裏庭に面した狭い廊下に立つと、両手を伸ばして描き終えた無花果を本物の木と見比べた。赤紫の実が濃淡の緑色から浮き上がっている。実際の実よりも三倍ぐらいの大きさになっていた。熟れた実は、とても美味しそうに描けている。
 みかん箱に画板を置いて画用紙を裏向ける。題名の欄に、いちじくの実。と書いた。
「お母ちゃん。宿題終わったで!」
 振り向いて六畳の部屋に声を掛けた。明るい陽射しを見ていた目が眩んだ。
「大きな声を出したらあかん」
 薄暗い室内で、母親の白いシャツの色だけがにじんだように浮かんでいる。昼寝をしている父親に、団扇で風を送っていた。
「ぼくの声より、セミの方がうるさいわ」
 庭に降りると大きなゲタを履いて、みかん箱を無花果の木の下まで運んだ。
 素足でみかん箱に乗る。実を右手の指先で触れる。力を入れると柔らかくくぼんだ。根元をつまんでもぎとった。茎から白い汁が吹き出して、かぶれて痒い手に流れる。熟れた実の割れ目から、アリが逃げ出す。指を這うアリを息で吹き飛ばしながら二つに割った。艶やかな赤いつぶつぶの上を動き回る黒いアリを爪で弾く。
 真ん中をくちびるに当てると、指に力を入れて押し込んだ。とろりとした甘味が、口の中いっぱいに広がる。薄い皮にたどり着くまで舌で舐めて、ざらついた感触を味わった。
 家の中を盗み見た。団扇は動いているのに、母親の首がこくり、こくりと落ちている。もう一度、木箱に足を掛けて二つ目の実に手を伸ばした。
「お腹が冷えるから、一個にしときや」
 母親の声が背中に飛んで来た。
「これが一つ目や」
身 体をねじって、もぎ取った無花果の実を突き出す。
「嘘をつくと、閻魔さんに舌を抜かれるで」
 母親に気を取られて、アリに腕を噛まれた。左手で叩き落とすと、急いで二つ目を口に入れた。
 部屋に上がって母親の横に腹ばいになる。
「毎日一個ずつ熟すから『一熟』言うんや。ほんまに美味しいのは一個だけやで」
「好きなモノは、なんぼ食べても美味しいわ」
 横座りしているふくらはぎに頭を乗せる。
「暑いから、離れて」
 母親は首に掛けていたタオルで額を拭った。
「いやや」
 汗っぽい頬を押し付ける。
「外で遊んだらええのに」
 団扇を稔の顔の前でばたばたと動かした。
「今日は、夏休み最後の日曜日や。みんな、どこかに連れて行ってもらってるんやで」
 同級生の達也が海水浴に出かけたことを知っていたので、公園に行かなかった。
「どこにも連れていってもらえへん家の子ばっかり集まって遊ぶのは、ミゼラブルや」
「みのるは難しい言葉を知ってるんやなあ」
 あくびをした口に手を添えた。
「みじめ、いう意味やで」
「もう、あかんわ。バトンタッチして」
母親は稔に団扇を渡すと、崩れ落ちるようにして寝そべった。
「百回あおぐと、一円やで」
 稔は母親が頷くのを確かめてから立ち上がった。足を広げて、ふたりに風が届く様に「いち、にい、さん、しい」と、両手を大きく振った。セミの鳴き声と父親の寝息が交互に聴こえる。五十まで数えて、母親の首からタオルを抜いて顔の汗を拭いた。

「雪ちゃんが、家の前を何回も通ってるわ。遊んで欲しいんと違うか」母親が言った。
 稔が首を伸ばすと、白い道に野良犬の垂れた尻尾が見えるだけだった。
 母親は、玄関の土間に板を敷いた上で足踏みミシンを掛けている。ペダルを踏むと右のベルトが回転して針が上下する。シャツにタグを縫い付けると、手の中の握りばさみで切って後ろの三畳の部屋に放り込む。稔はそれを一枚ずつきれいにたたんで、タンスの前に積み上げていく。百枚揃えると一円の小遣いになる。これで「焼き玉」が一個買える。近くにある駄菓子屋の店先で、タコの代わりに小さく切ったコンニャクを入れて焼いていた。
 昼寝のまま寝入ってしまった父親のいびきとセミの声が、ミシンの音で遠ざかる。
「また、来たよ」
 再び首を傾けると、中腰になった雪子が、くりっとした目を見開いて覗き込んでいる。明るい外からは、家の中が暗くて見えにくいようだ。四歳の雪子は、五年生の律子のお古の大きなズック靴で、バタバタと歩いていった。
「夏休みのドリルもせなあかんし、遊んでられへんわ」自分に言い訳をするように言った。
「おいしいキャンディー」と大きな声が聴こえる。ちりんちりんとベルの音を鳴らしながら、木の箱を後ろに積んだ自転車が通り過ぎていく。 
 四時を過ぎた。稔はタンスの小物入れの引き出しから、広告の裏紙を束ねたメモ帳を取って母親に渡した。
「お母ちゃん、ちょーめんに書いて」
「今日は、六円も儲けたんやな」
 母親は重ねてあるシャツを数えて、「正」の文字が並んでいる黄色い紙に書き足した。
「団扇であおいだ分も書いてや」
「何回あおいでくれたんや?」
「二百回やけど、百回にまけとくわ」
「ほんまかぁ」
 そう言いながら母親は、線を一本付け加えた。
 稔はメモ帳を戻すと、ミシンの横を通って台所に置いてあるバケツを持ち上げた。

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