59 2016・4・30(土) 阿礼さん 評
文字数 2,248文字
*
2016・4・30(土)
『空、駈ける馬』 読ませて頂きました。
浦山さん
こんにちは、新緑が美しいですね。
遅くなりましたが、『空、駈ける馬』の感想送らせて頂きます。
*
*
『空、駈ける馬』を読んで
最後の絵の具のチューブや指で直接絵を描いていく場面が迫力あり、行動で主人公の気持ちの伝わる場面で、読んだ後にその場面が強く残りました。
それもあわせてタイトルの『空、駈ける馬』というのはさわやかすぎるように思います。
作品全体に 稔の伸びていきたい気持ちに父と母の鬱屈としたやるせなさが覆うように存在していて、空駈けるより、空を駈けたいけれど、駈けられずもがいているようなタイトルの方が合っているのではないでしょうか?
私のイメージとしては 川底の馬、泥まみれの馬、などのような感じがします。
大きくは次のように展開していくかと思います。
父の休み
↓
淀川 馬の木を見つける
↓
渡し舟
↓
鉄橋
↓
お風呂 父が背中の傷を隠している
↓
馬の絵を描く
無花果や夜が匂う夏を読ませて頂いてきて、浦山さんが書いておられるこの時代の重苦しさが、これまでの作品のイメージと重なって独特の空気として感じられます。
心に響く場面はたくさんあるのですが、たとえば、渡し舟のおっちゃんの饒舌さが四ページ下の母と稔のふざける場面(わらわは決して許しませぬぞなど)の効果を弱めてしまったり、お風呂の美也子の成長した身体が出てくることで父が背中の傷跡を隠している場面がやや弱くなってしまったりして、もったいないと思います。
渡し舟のおっちゃんはやや寡黙で土左衛門のことをぼそっと言ってもいいのでは?と思います。
これまでの作品と合わせて読ませて頂いて思うのですが。
父・母・律子・明美 無花果では律子、夜の夏では明美、今回の作品では父(そして母)というように、それぞれの作品での中心人物を決めてその人物と稔の関係に重きを置いて連作として書いていくのはどうでしょうか?
書き進めると、全体として立体的にその時代や人物が浮かび上がってくるのではないかと思います。
今回の作品で 母文江の激しさが垣間見えました。
P.6の下段 お陽さんを独り占めしたら、どうなると思う? の言葉、
鉄橋を自転車で走りきるところなど。この作品では 父と母にしぼって書いて、増井と増井の母親(これも興味あります)、達也と美也子のことはまた別の章で書くようにすると、読者として焦点を絞りやすいように思います。
夜が匂う夏 でも感じたことですが、母文江の家出と明美と父の関係ふたつの出来事がどちらも同じ位の重さで描かれていて、読者として読みにくかったので、中心人物を絞っていただくといいのではないでしょうか?
漠然とそう思っているだけですので、浦山さんの目指しておられる方向と全然違っていたら、申し訳ありません。
細かいところですが。
P.2 上段 アメンボ の場面。近寄らせるために石を顔の真ん中に落とすより、近寄らせるためにアメンボの前方に石を落とすと波紋で自分の顔が消えた の方が自然では?
P.3 シャツをたたむ場面がいいです。
しかし、淀川と聞いてせっかく作ったシャツの山を4つもくずすでしょうか?
P.5 馬の木を見つける場面がいいです。
この場面もっとふくらませてほしいです。
母からは汚い木にしか見えないのに、稔にとっては特別な木である理由がほしいです。
ただ大きさがわかりにくい、両手でかかえないと持てないほどなのか、片手でひょいと持てるものなのか?
空駈ける馬のイメージとしては大きくて両手でかかえるほどでは?
流木とは岸に打ち上げられているのか、水辺に浮いているのか、
手にすると濡れているのか乾いているのか?
また父に切られて躍動感が失われたときの稔の状態と馬を胸に抱く様子をもう少し詳しく描写してほしいです。
P.8上段 背中に唇をつけて息を吹き付ける 熱っ! と叫ぶほど熱くなりますか?
P.8下段 最後 あとどれくらいで渡りきるのか?
遠い先に空しか見えないのところ、この状況では空よりも頭の上を覆う鉄橋の威圧感の方が強く感じられるのではないでしょうか?
空へ飛んでしまう ところに結びつけたいのはわかるのですが。
列車が通り過ぎると風は前から吹き付けたのところ、通り過ぎてすぐは列車にひっぱられる方向に風が吹くように思いますが。通り過ぎてしばらくしてからのこと?
P.10 お風呂の場面 5年生で女風呂に入るのはやや幼いように思いますが、当時はそうでしたか?
下段の 達也ちゃん、もう一人で洗えるの?
という質問はやや? 5年生なら 一人で洗うのでは? それとも、普段はなかなかしっかり洗えないからお風呂に行ったときはしっかり洗ってもらう ということでしょうか?
老人のうんこや美也子の体のところを書かずに、父の背中の傷から、夜の無花果の影にうつる方が効果的と思います。
P.12 稔が馬を描く場面がやっぱりとてもいいです。
この場面では みんなの会話を極力減らして稔、母、達也の様子やしぐさで表して余韻を持って終わるともっとよいのではと思います。
羽ばたくよりは羽ばたこうとしてもがいている方が 作品にはあっているのでは?
考えるほどわかりません。
浦山さんのこの時代の連作がずっしり心に沈みます。
読ませていただき、ありがとうございました。
阿礼
2016・4・30(土)
『空、駈ける馬』 読ませて頂きました。
浦山さん
こんにちは、新緑が美しいですね。
遅くなりましたが、『空、駈ける馬』の感想送らせて頂きます。
*
*
『空、駈ける馬』を読んで
最後の絵の具のチューブや指で直接絵を描いていく場面が迫力あり、行動で主人公の気持ちの伝わる場面で、読んだ後にその場面が強く残りました。
それもあわせてタイトルの『空、駈ける馬』というのはさわやかすぎるように思います。
作品全体に 稔の伸びていきたい気持ちに父と母の鬱屈としたやるせなさが覆うように存在していて、空駈けるより、空を駈けたいけれど、駈けられずもがいているようなタイトルの方が合っているのではないでしょうか?
私のイメージとしては 川底の馬、泥まみれの馬、などのような感じがします。
大きくは次のように展開していくかと思います。
父の休み
↓
淀川 馬の木を見つける
↓
渡し舟
↓
鉄橋
↓
お風呂 父が背中の傷を隠している
↓
馬の絵を描く
無花果や夜が匂う夏を読ませて頂いてきて、浦山さんが書いておられるこの時代の重苦しさが、これまでの作品のイメージと重なって独特の空気として感じられます。
心に響く場面はたくさんあるのですが、たとえば、渡し舟のおっちゃんの饒舌さが四ページ下の母と稔のふざける場面(わらわは決して許しませぬぞなど)の効果を弱めてしまったり、お風呂の美也子の成長した身体が出てくることで父が背中の傷跡を隠している場面がやや弱くなってしまったりして、もったいないと思います。
渡し舟のおっちゃんはやや寡黙で土左衛門のことをぼそっと言ってもいいのでは?と思います。
これまでの作品と合わせて読ませて頂いて思うのですが。
父・母・律子・明美 無花果では律子、夜の夏では明美、今回の作品では父(そして母)というように、それぞれの作品での中心人物を決めてその人物と稔の関係に重きを置いて連作として書いていくのはどうでしょうか?
書き進めると、全体として立体的にその時代や人物が浮かび上がってくるのではないかと思います。
今回の作品で 母文江の激しさが垣間見えました。
P.6の下段 お陽さんを独り占めしたら、どうなると思う? の言葉、
鉄橋を自転車で走りきるところなど。この作品では 父と母にしぼって書いて、増井と増井の母親(これも興味あります)、達也と美也子のことはまた別の章で書くようにすると、読者として焦点を絞りやすいように思います。
夜が匂う夏 でも感じたことですが、母文江の家出と明美と父の関係ふたつの出来事がどちらも同じ位の重さで描かれていて、読者として読みにくかったので、中心人物を絞っていただくといいのではないでしょうか?
漠然とそう思っているだけですので、浦山さんの目指しておられる方向と全然違っていたら、申し訳ありません。
細かいところですが。
P.2 上段 アメンボ の場面。近寄らせるために石を顔の真ん中に落とすより、近寄らせるためにアメンボの前方に石を落とすと波紋で自分の顔が消えた の方が自然では?
P.3 シャツをたたむ場面がいいです。
しかし、淀川と聞いてせっかく作ったシャツの山を4つもくずすでしょうか?
P.5 馬の木を見つける場面がいいです。
この場面もっとふくらませてほしいです。
母からは汚い木にしか見えないのに、稔にとっては特別な木である理由がほしいです。
ただ大きさがわかりにくい、両手でかかえないと持てないほどなのか、片手でひょいと持てるものなのか?
空駈ける馬のイメージとしては大きくて両手でかかえるほどでは?
流木とは岸に打ち上げられているのか、水辺に浮いているのか、
手にすると濡れているのか乾いているのか?
また父に切られて躍動感が失われたときの稔の状態と馬を胸に抱く様子をもう少し詳しく描写してほしいです。
P.8上段 背中に唇をつけて息を吹き付ける 熱っ! と叫ぶほど熱くなりますか?
P.8下段 最後 あとどれくらいで渡りきるのか?
遠い先に空しか見えないのところ、この状況では空よりも頭の上を覆う鉄橋の威圧感の方が強く感じられるのではないでしょうか?
空へ飛んでしまう ところに結びつけたいのはわかるのですが。
列車が通り過ぎると風は前から吹き付けたのところ、通り過ぎてすぐは列車にひっぱられる方向に風が吹くように思いますが。通り過ぎてしばらくしてからのこと?
P.10 お風呂の場面 5年生で女風呂に入るのはやや幼いように思いますが、当時はそうでしたか?
下段の 達也ちゃん、もう一人で洗えるの?
という質問はやや? 5年生なら 一人で洗うのでは? それとも、普段はなかなかしっかり洗えないからお風呂に行ったときはしっかり洗ってもらう ということでしょうか?
老人のうんこや美也子の体のところを書かずに、父の背中の傷から、夜の無花果の影にうつる方が効果的と思います。
P.12 稔が馬を描く場面がやっぱりとてもいいです。
この場面では みんなの会話を極力減らして稔、母、達也の様子やしぐさで表して余韻を持って終わるともっとよいのではと思います。
羽ばたくよりは羽ばたこうとしてもがいている方が 作品にはあっているのでは?
考えるほどわかりません。
浦山さんのこの時代の連作がずっしり心に沈みます。
読ませていただき、ありがとうございました。
阿礼