137 権田俊輔はカンニングペーパーもなしに

文字数 976文字


 権田俊輔はカンニングペーパーもなしに、堂々と本を掲げてスピーチを始めた。
太宰賞を受賞したばかりの『さよならオレンジ』岩城けいだ。

 オーストラリアの田舎町。アフリカ難民のサリマは、夫に逃げられ、精肉作業場で働きながら二人の息子を育てている。
 職業訓練学校で英語を学びはじめて、そこで日本人女性「ハリネズミ」と出逢う。「ハリネズミ」は、自分の夢をあきらめて夫についてきたのだ。
「オーストラリアが舞台のメタ構造の作品で、人間としての尊厳を言葉によって取り戻していく主人公たちの姿がいいんですよ」と、英語で書かれた手紙を流暢に読み上げた。

 最後は『風と光と二十の私と』。さっき『長距離走者の孤独』が好きだと言った青年だ。坂口安吾の作品を推すところに関心を持った。
 彼は好きな箇所を朗読した。
「子供は大人と同じように、ずるい。牛乳屋の落第生なども、とてもずるいにはずるいけれども、同時に人のために甘んじて犠牲になるような正しい勇気も一緒に住んでいるので、つまり大人と違うのは、正しい勇気の分量が多いという点だけだ。

 ずるさは仕方がない。
 ずるさが悪徳ではないので、同時に存している正しい勇気を失うことがいけないのだと私は思った」
 彼は続けて、ぼくが持って来た文庫本を広げた。
「人生でモノを言うにはずるさだ。そのずるさも抜け目なく使わなきゃ駄目だ」を読み上げて「浦山さんもこの箇所に線を引いていますね」と視線を向けて来た。
 アイコンタクトに胸がときめいたのは、数十年ぶりのことだった。

 坂口安吾とシリトーとの意外な共通性、この着眼点は面白いんじゃないかな。
 著者は「ずるさ」と書いているけど、「成熟のリリシズム」だと捉えることもできる。
 ぼくの好きなある種のハードボイルドだ。
 ぼくは興奮を覚えた。
 この青年が、ぼくの一番若い文学友だちになった。

 ぼくは投票用紙に『風と光と二十の私と』ではなくて、『さよならオレンジ』と書いた。
 隣の席の権田俊輔は、「『長距離走者の孤独』と書いた」とわざわざ見せてきた。
 不可思議な人物である権田俊輔にものすごく興味を抱いた。
 投票の結果、二十代の青年の援護射撃のお陰もあって、ぼくがビブリオバトルで優勝したんだ。

 そして、ぼくが尾之上クラスに入ると、そこには権田俊輔の姿があった。
 何か不思議な縁で結びついているみたいだ。

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