08 2013・10・18(金)  清川康雄 評

文字数 2,352文字


013・10・18(金)

「無花果」)について  清川康雄
○ 「書き出し」
 読者にとつて、未読のテキストは、未知の存在です。
 そんな読者をいかにスムーズに作品の世界へ導いていくか。
 書き出しは、そのための重要な役割を担つている、と思います。
 特に、枚数に限定のある短編作品にとつては。

◇本作品の「良い点」
 主人公の個人的な属性や小説上の現在時、「語り」における視点の位置が、一枚目の中盤までに、概ね提示されていること。
 この小説における象徴的存在である「触れてみたい」の提出の仕方が上手なこと、です。

 まず、無花果は、夏休みの宿題として画用紙に描かれたものとして私たちの前に現れます。
 そこには、本物より三倍の大きさの無花果があり、本来、存在すべき便所などは、描かれていません。
 このことは、主人公、稔のものの見方とか、彼を取り巻く家庭の状況を、よく現しています。

 それから庭に植えられた実際の無花果をめぐる母とのエピソード
 それらが読者に、裕福とは言えないが、飢える心配もない経済状況の下で、両親に愛されながら成長している小学4年生の男の子の姿を、喚起さすことに成功しています。
 反面、それは無花果を食べることのできない律子の現状を連想させるとともに、同時に布石として、ラストにおける「律子ちやんに、いちじくの実を食べさせてあげるんや」の言葉へと、確実に繋がつている、と思います。

◇本作品の「検討点」
 人称および視点の混乱について
 本作品は、形式的には二人称小説です。しかし、心情や景色や状況を描写して行くための基軸となる語りの視点は、「稔」に置かれています。
 つまり、本質的には、一人称的な小説(仮に地の文の「稔」を「ぼく」に置き換えても、根本的な畑婦は起こらない)と言えます。

 ところが、時々、天の声的な存在(=「作者」)が現れて、稔の代わりに語りだす、とところがあります。
 たぶん作者としては、舌足らずの個所を補足したいのでしょうが、多くの場合、結果的には、単なる説明でしかなく、折角の文章の流れやリズムを損なつてしまっています。
 文体の魅力のひとつである「流れ」と「リズム」を犠牲にしてまでも、どうしても説明をしなければならない事項は、そんなに沢山あるとは思えません。

冒頭における表記
(現)『昭和三十五年』『人月二十八日』『四年十二組』『浦山稔』と画用紙に糊付けしてあるワラ半紙の空欄を埋めた稔は、2Bの鉛筆の芯を紙めた。あとは題名を書くだけだ。

(案)稔は画用紙を裏返すと、糊付けしてあるフラ半紙の空欄を埋めていった。昭和三十二年、人月二十八日、四年十二組、浦山稔。あとは題名を書くだけだ、と2Bの鉛筆の芯を紙めながら稔は思つた。

 実際の手順どおりに記述した方が、文章の流れが自然となります。
 特に、『 』は、視覚的にも美しくないので避けたほうがいいのでは。この手法は、作者の一種の癖になつていて、全編で大小様々な事例が見られます。

 例えば、P2上段の「鼠入らず」の注記は、その典型でしょう。
(現)土鼠入らずの横に本製の氷冷蔵庫が置いてある。

(案)食品を収納している鼠入らずと呼ばれている戸棚の横に木製の氷冷蔵庫が置いてある。

 上記(案)で不十分なら、稔がもつと幼少の頃、母に鼠入らずの由来を聞くエピソードを挿入するとかすれば、この些かむさ苦しい「注記」は不要となるのではないでしょうか。

 もう一点、両親の表記の仕方について意見があります。この作品は稔の立場から書かれているので、「母親の文枝」(あるいは文技)や「父親の寛之」(同重之)と表記するよりも、単純に「量」、「■」の方が、自然でいいのではないでしょうか。
 シンプルな視線に従つて叙述を統一するだけで、もつと素敵な文章になるような気がします。

時代と背景について
 本小説の現在時である昭和三十五年すなわち1960年6月には、日米安保条約反対闘争があ,1958年東京タワー営業開始、 1964年には、東京オリンピックが開催されました。
 (つまり「三丁目の夕日」の時代?)
 1958年に国産初の大衆乗用車「スバル360」が発売されましたが、1966年の大阪における乗用車の保有台数は、203:510台です。
 (これ以前のデータがネットではみつかりませんでした)

 1962年、日活映画「当たりや大将」により、「当たり屋」が流行語となり、1966年には「当たり屋夫婦事件J発生。 1969年「大島渚の「少年」(子供の当たり屋の話)が話題となりました。

 1960年を描くのに、安保を含む状況を全く書かなくてもいいのでしょうか。
 大阪の郊外(あるいは滋賀県)に、その影響は及ばなかつたのか知りたいと思いました。

 ラストシーンにおける律子の負傷の原因は、当たり屋がいいのでしょうか?
 車がまだ普及しきれていない60年に詐欺行為として、はじめてそれを行うには、かなりの独走的な想像力が必要と思われますが、律子の両親にその能力があるとは思えません。彼らには所詮、小悪党であり、二番煎じしかできないような気がします。
 当たり当たり屋に拘るのなら、それが世間一般に認知された後の方、つまり小説上の現在時を数年後にずらした方が、リアリティがあるように思います。
 それよりも万引きをして逃げるとき、転んで怪我をした程度の方が、彼らには似合うのではないでしょうか。

○総括
 稔の律子への淡い憧憬を中心に、雪子、達也、ヤス、長沢など、子どもたち息遣いが、生き生きと行間から溢れてくるよい作品だと思います。
「梅田」の秘密を知らなかったのは、稔だけのようでもあり、そのおつとりしたところ(いいキャラですね)に思わず微笑んでしまいました。
 
 2013ノ10/18  清川康雄


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み