第35話 木枯らし 4

文字数 3,343文字



 文江が駐輪場に自転車を停めているあいだに、裕二は雪子を連れて改札を通って行った。
 駅の窓口で文江が京橋までの切符を買うときに、達也が頼んできた。
「おばちゃん、ぼくの切符も買ってんか。帰ってから返すから」
「いくら達也ちゃんの頼みでも、他人(ひと)さまの大事な子どもを、勝手に連れていかれへん」
 大人と子ども一枚分の切符を手にした文江がいうと、達也はあきらめがついたのか稔の肩を叩いた。
「雪子のこと、頼んだで」
「ぼくに任せとけ」
 稔は達也と長沢に手を振ってから、文江の後に付いて改札口に向かった。

 ホームに立つと、冷たい風でマフラーの先が舞い上がった。電車を待っていると、興奮が風にとばされて、服装のことが気になってきた。
 文江も裕二も、オーバーで下に着ている服は隠すことができる。
 ちらちらと稔に視線を向けてくる雪子が着ている赤いジャンパーと濃紺のスカートは、律子のお下がりみたいだが少し大きいだけで、よそ行きの服装に見える。靴下もはいているし赤いズッククツも色あせてはいるがサイズは合っている。
 それに比べて、稔は靴下もはいていなくて、まったくの普段着だ。
 電車が到着すると、稔は、顔が分からない様に青いマフラーを鼻の上まで巻いて乗り込んだ。

 車内の座席はほぼ埋まっていた。立っているのはよそ行きの服を着た子どもたちと、数人の大人だけだった。
 裕二がドアの前に立ったので、文江も近くに立った。雪子がドアの窓に両手をつけて、流れる景色を熱心に見ている。その目の輝きが律子にそっくりだ。
 稔が初めて律子と会ったのは、小学校へ入る前の年だった。
 文江と達也の母親が同じメリヤス工場で働いていて、年齢の同じ稔と達也は幼馴染みとして育った。達也の三歳上の姉、美也子に付いて、稔は達也と一緒に松月公園へ連れて行ってもらったのだ。美也子が遊ぶグループの中に律子がいた。
 律子は赤ん坊の雪子をおんぶ紐で背負って公園に来ていた。その時には、すでに右足を曳きずって歩いていた。
 美也子が友だちの家に遊びに行くのにも、いつも達也がついていっていた。独りぼっちになったと感じた稔の相手をしてくれたのが律子だった。
 色んなことを思い出していると、マフラーで包んだ顔が、じんわりとあたたかくなった。
 千林(せんばやし)駅で降りる人が多くて近くの席が空いた。裕二が腰を下ろすと、文江が隣に座った。
「わたしらは、どこまでも一緒に付いていくつもりです」
 文江が宣言するようにいうと、裕二は「好きにしたらええ」と邪魔くさそうに応えた。
「噂話で動くのは、浅はかな人間がすることやと思っているので、何もでけへんかったけど、律子ちゃんの事故で動かんとあかんと思ったんです」
「なんやそれ、おれが悪いことをやってるみたいなこというてるやないか。あんたが頼りにしている警察も、動いてへんのに」
「そやから、わたしも一緒に行くことを決めたんです。そうしたら、雪子ちゃんのことを見届けられるでしょ」
「こっちにも噂話は流れてるんやで。たとえば、あんたの亭主が仏像を彫ってるのは、満州で憲兵やった時に何十人も殺したからやとか、あんたが向かいの家の若い兄ちゃんと乳くりあってるとか」
 稔は耳に届いた言葉に、思わず文江の顔を見た。
「何をアホなこと、いうてはるんや」
 顔をそむけた文江を見て、裕二がうす笑いを浮かべている。
 稔の顔が熱くなってきた。向かいの家の若い兄ちゃんというのは、たかし兄ちゃんのことだ。乳くりあうようなことはしていない……はずだ。
 父親が憲兵で何十人も殺したといわれたことはショックだった。寛之から戦争の話は何も聞かされていないので、嘘とも本当ともいえない。
「お偉いおかたは、他人の噂話には口出しをして、自分に都合が悪い噂話は無視するんやな」
 裕二が低く笑っている声が耳の奥に残った。

 京橋駅で、京阪から国鉄に乗り換える。
 裕二と雪子の後ろを歩く文江の足取りが重いように稔は感じた。電車の中でいわれた噂話を気にしているみたいだ。
「律っちゃんが、お父ちゃんは嘘つきやいうてたで」
「……」
「それで、嘘ばっかりついてるから罰(ばち)が当たって、エンマさんに舌を抜かれる代わりに、騙されて借金を作りはったんや」
 稔は増井が教えてくれたレーニンはんの言葉を思い出した。「金持ちと詐欺師は、メダルの表裏の違いしかない」
 そのこともいおうとしたが、言葉を止めた。
 詐欺師は嘘をついて人を騙す悪いやつで、金持ちもみんな悪者だ。
 でも、いまはたかし兄ちゃんの話はまずい。それに、嘘つきは金持ちなのに、裕二は貧乏だ。
 稔がいい淀んでいると、文江が口を開いた。
「みのるが、お母ちゃんに元気つけるためにいってくれてるのは分かるけど、人のことを悪くいうのはやめて欲しいわ」
「……」
「あんなアホな話は、はなから相手にしてへん。ただ、みのるの耳を汚してしもたやろ。一度、頭にはいったもんはなかなか消えへん。そやから、みのるにどう説明すればええかを考えてたんや」
「……お父ちゃんのことか?」
「いつか話をせんとあかんのやけど……」
 「もうちょっと、大きくなってからのほうがええかなと思ってるんや。これはお母ちゃんだけの考えとちがうで、お父ちゃんもみのるに知ってもらいたいと思ってはるんや」
「ぼく、……もう、大きいで」
「あっ!」
 小さく文江が叫んだ。
 稔は自分がいったことの何に驚いたのかと顔を上げて文江を見た。
「金田さんを見失った」
 文江がきょろきょろと顔を動かしている。
 話に夢中になって、裕二の姿を見失ってしまったのだ。
「雪子!」
 稔は大きな声で呼びかけた。
 応える声を求めて耳を澄ます。街を行き交う人の賑やかな話し声が聞えてくる。大きな声で笑ったり、ひそひそ声でしゃべったりしている。
 稔は目の前を通り過ぎる服の色、茶、黒、濃紺、灰色などの隙間に、雪子の赤いジャンパーを見つけようと必死に探した。
「雪子!」
 再び大声を出した。
 すると目の端をチラッと赤い色がかすめた。目を戻して確かめると、それは雪子だった。あまり遠くないところを走っている。

「ゆきこぉ!」
 稔は叫んだ。
「みのるくーん」
 声に遅れて人の間から雪子が飛び出してきた。
「迷子になったら、あかんで」
稔がいう前に、口を尖らせて雪子がいった。
「雪子ちゃんが、探しに来てくれたんか?」
 文江が驚いている。
「そうや、一緒にうめだへいくのに、いてへんようになったから」
「金田さんはどこに居てはるんや」
「あそこのおみせのところや」
 雪子が指したのは、駅へ向かう道筋ではなくて脇道の方だった。
 見ていると、裕二は殊更にゆっくり歩いてぎた。
「勝手に一人で行ったらあかんやろ」
 雪子の腕を強く握った。
 裕二は隠れて、様子を見ていたに違いないと稔は思った。

 国鉄の環状線は混んでいたので、稔は雪子の手を繋いでドアの近くに立っていた。文江と裕二はお互い居心地が悪そうにそっぽを向いている。
 大阪駅は人で溢れ返っていた。人混みにまぎれて姿を見失わないために、前を行く裕二と雪子のすぐうしろに付いて歩く。混雑している中を、前のふたりは手を繋いでいるが、稔と文江は、それぞれ手をジャンパーとオーバーのポケットに入れていた。
 稔から手を繋ぐのが、意地を張っていただけに恥ずかしいのだ。
 駅から出ると、梅田の街は大きな影のように見えるビルに周りを囲まれて、暗く沈んだ穴の底にいるみたいに思えた。
 稔は年に三度ほど両親に連れてきてもらうのだけれど、父親の寛之がいないので心細い。
 荷物の多い乗客を乗せてタクシーが駅から流れ出ていく。道路には数多くの自動車が四方八方に走っていた。

 梅田の大通りにも冷たい風が吹いていて、空中に張り巡らせてある電線が唸り声を上げている。
 雪子が時々、裕二を見上げて笑う。幸せな空気を漂わせながら歩いている後ろ姿を目にして、  稔はほっとすると同時に、心のなかで警戒を深めていた。
 路肩にはセルモーターを回してエンジンをかけようとしている車もあれば、ひっそり静かに停車しているものもあった。
 雪子に危害を加える可能性があると思うと、それらが、うずくまる怪獣のように見えた。


木枯らし 5 に続く。

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